「クンタオ(33)」(2024年01月10日)

何の取り得もないやせた年寄りに夫が居所を与え、飯を食わせ、下男を雇ってやり、それ
だけならまだしも店の商売をほっぽり出して金儲けすら怠り、おまけに大切な妻子への愛
情すら忘れ去ったと妻は感じたのだ。夫の家族に愛想のかけらも示さず、夫の心を狂わせ
てしまった年寄りに対して妻が憎しみを抱いたのも無理はあるまい。

ユー・チュンガンを悪しざまに言い、目を覚ませと夫を非難する妻との喧嘩の日々がバン
テンの暮らしを彩るようになった。そして夫婦喧嘩は行き着くところまで行き、離婚を互
いに叫び合う日がやってきた。親戚一同がそれを放置すればこの家庭は崩壊しただろうが、
バンテンの叔父伯母がそうはさせなかった。夫婦が離婚を実行に移そうとする前に叔父夫
婦がやってきてふたりに意見したのである。危機は回避された。ただしそれは仲直りなど
という甘いものでは決してなく、その時代の価値観をそのまま反映する女の忍耐と服従と
いう形態の実践でしかなかったのだが、ともかくこの家庭の空中分解は辛うじて防がれた
のである。


ユー師匠からクンタオの教えを自分ひとりが受けるのはもったいないとバンテンは考えて、
一緒に教えを受けようと友人知人を誘った。そのために家を借りて道場に作り直し、そこ
を武館にした。そして弟子になった者たちから謝礼を取り、自分の金をそこに加えて師匠
の収入にした。

ところが武館でユーはバンテンをインストラクターにし、自分は何もせずにただ座って練
習を見ているだけだった。ユーはバンテンにだけクンタオの技を丁寧に教え、バンテンが
それを武館で仲間たちに教えるという形が取られたのである。自分が学んだことを他人に
教えるというプロセスが学習結果の消化を完璧なものにするという鉄則がそこで実践され
たのだったが、武館に集まるバンテンと仲間たちがそこまで理解したかどうか。

バンテンの仲間たちには、バンテンが大師匠とあがめているやせた年寄りが本当にクンタ
オの達人であるとは思えなかった。それはバンテンの妻が犯した失策と似たようなものだ
った。バンテンの妻も、こんなやせて力のなさそうな年寄りはクンタオのかけらも知らな
い女のわたしが押しただけでひっくり返ってのびてしまうだろうと思ったのだ。

ある時、武館での練習時間にバンテンが遅刻した。集まった弟子たちはユーに、師範代が
来ないからぜひ師範ご自身から教えを受けたいと願い出た。ユーにはもちろん、弟子たち
の真意がどこにあるのかが判っていた。

ユーは立ち上がると弟子の中から身体が大きくて力の強そうな者を4人並ばせて、腕を打
ち合わせる技を行なった。お互いに自分の腕を相手の腕に打ち当てる技だ。ユーと腕を打
ち合わせた4人の中のだれひとりとして、2打目を試そうとする者がいなかった。最初の
一打だけでだれもが、腕が打ち合わさるときにユーが加えた瞬発力の凄さを思い知ったか
らだ。硬い木の棒で腕を叩かれたような痛みを感じたとかれらは後で語った。それ以来、
ユー・チュンガンの名前が巷でささやかれるようになった。


バンテンは酒屋商売のために時々厦門や泉州に旅をした。あるときユーが厦門に住んでい
る兄弟弟子のGoei Un Lam魏隠南に紹介状を書いてくれた。「アモイに行ったときに会っ
て来い」と言う。言われた通りバンテンはHoan Thian Pa翻天豹のあだ名を持つグイの家
を訪れて、ユー師匠の話をいろいろとした。グイ師はバンテンのユーに対する尊敬と奉仕
に感銘を受けたようだった。弟子を取らないユーが珍しく持ったこの若者に興味を抱いた
グイ師はバンテンにクンタオの動きを示させた。それを見たグイ師の顔が曇ったのを、バ
ンテンは見逃さなかった。だがグイ師はそのことに関してバンテンに何も言わず、「一度
アモイに遊びに来るようにユーに伝えてくれ」という伝言をバンテンに与えただけで、バ
ンテンは歓待されてその家を辞した。

自宅に戻ったバンテンがグイ師との会見の様子をユー師匠に語り、最後に伝言を伝えたと
き、ユーの顔色が変わった。その数日後にユーは厦門に旅立った。[ 続く ]