「クンタオ(34)」(2024年01月11日)

そしてユーは厦門にほんの数日いただけでほどなくバンテンの家に戻って来ると、バンテ
ンに五祖拳の奥義を手ほどきし始めたのである。ユーは兄弟弟子のグイに意見されたのだ。
「あれほどお前を師匠とあがめて誠心誠意尽くしている弟子に何を教えているのか?弟子
を自分より優れた人間に作り上げようとしない師であるなら、その教授と指導は決してホ
ンモノにならず利己的なもので終わってしまう。そんなことをするのはシャオリムホーヤ
ンパイの名を汚しているのも同然だ。」

確かにユーはバンテンに五祖拳の奥義を伝えようとは考えていなかった。通りいっぺんの
クンタオの基礎を教えて訓練してやればそれで済むことと思っていたようだ。酒屋の若主
人を五祖拳流派の高弟にするという考えがユーにとっては常識的でなかったということな
のだろう。

相手を撃って打撃を与える効果的な方法、撃つときにその部位に力を集中させるための身
体の動き、敵への打撃効果を高めるための手と足の連係動作、敵の攻撃を受け流すのに最
適な身体の動き・・・・。

それらを学び始めてから、バンテンの目からウロコが落ちた。かれの頭脳にクンタオの本
質に関する悟りが開かれ、かれの身体がその悟りを具体化するために動くようになった。
およそ3カ月後、ユーはバンテンに力試しをしてもよいと許可した。バンテンは昔のリン
チグループに対決を挑んだ。「誰でもよいからオレにかかって来い。みんな一緒でもいい
ぞ。」

昔から一対一だと勝てない相手だったから、当然集団でかかってきた。ところがひとりも
バンテンの身体に打撃を与えることができず、バンテンの身体に触れる前に自分が飛ばさ
れて地面に転がった。五祖拳の奥義がバンテンの身に着いたことが証明されたのである。
故郷の町でロー・バンテンの名前が不動のものになった。


バンテンが27歳のときにユー・チュンガン師匠が没した。息を引き取る前に師匠はいつ
も身に着けていたベルトをバンテンに与え、「お前は十分な腕になった。これからは自分
で工夫してさらに自分を磨くように。このベルトには手帳がふたつ挟まれている。ひとつ
はワシが考えたクンタオのいろいろなヒント、もうひとつは身体の怪我や打撲の治療方法
の覚えを書いたものだ。ワシがお前に残せるものはこれしかない。お前のこれからの生き
方の足しにしてくれ。」と語って果てたのである。バンテンは実の父親が亡くなったとき
に劣らないほどたくさんの涙を流した。バンテンは家族を持ったことがない師匠の喪に服
し、自分に男児が生まれたらそのひとりにユー姓を与えて師匠の血統を継がせるとまで誓
いを立てた。

厦門のグイ師の知己を得たバンテンをグイ師が他の兄弟弟子たちに紹介してくれた。厦門
のOng Tjian Pwee翁朝言や泉州のLiem Kioe Djie林九如などの著名な拳道師たちがみんな
で兄弟弟子のユー・チュンガンを愛したバンテンを可愛がった。バンテンの酒屋商売は倒
産して店がなくなっていたから、かれは身軽にそれらの師匠たちと親交を深めてクンタオ
の道を掘り下げて行った。

それと同時に、クンタオに必ず付いて回る打撲や捻挫・骨折などの武闘医術についても、
ユー師匠が残した手帳に加えてリム師の骨筋の故障や内出血の治療方法に関する詳しい知
識、オン師が得意な脈拍の読み方から内科や老人・女性・子供の病気の治療方法などもあ
わせて習得し、医者の仕事もするようになったので、かつて父親が心配した喧嘩ひと筋の
世間のあぶれ者になるようなことは起こらなかった。医者としての名声も高まって、たく
さんの病人やけが人がバンテンの診療所にやってきた。[ 続く ]