「ヌサンタラのコーヒー(54)」(2024年01月11日)

中部アチェ県モガル部落の年寄りは、オランダ人による中部アチェ県でのコーヒー栽培の
皮切りが1924年のPaya Tumpi村だったと物語る。タケゴン〜ビルエン街道が1913
年に完成してから、オランダ人はコーヒー栽培に適した栽培用地を探すことに力を入れ始
めた。オランダ人はコーヒー栽培に関する情報を秘匿しようと努め、地元民にはできるだ
け知らせないようにしていた。

農園の世話をさせるために一部の部落民が雇われ、その部落民に自宅でもコーヒーを植え
させた。ただし自宅に植えたコーヒーのことを絶対に他の部落の者に知られてはならず、
コーヒーの木の葉すら見られてはいけないという禁止まで与えられたと言う。

オランダ人は一番最初にパヤトゥンピ村でそれを行ない、そのあとかれらはコーヒー栽培
をRediness, Blang Gele, Bergendal, Burni Bius, Bandar Lampahanへと拡大して行った。
その事業拡大の中心を担ったのはジャワ人やブギス人のコーヒー農民であり、オランダ人
の指導下にコーヒー栽培の経験を持ったひとたちだった。オランダ人はかれらをガヨに移
住させてコーヒー栽培プロジェクトを進めたのだ。その構造の中でガヨ人は単なる肉体労
働者でしかなかった。


別の研究者の報告によれば、ガヨ地方におけるコーヒーの事始めは1920年になる前に
オランダ人フィンハウゼンVeenhuyzenがパヤトゥンピ村にアラビカコーヒーを持ち込んで
村の外のトトルプムロを開墾し、そこに植えさせて農園にしたのが発端だった。フィンハ
ウゼンは一家で山奥の地に居住した。そのために作らせた竹編み壁の小屋が今でも残骸を
さらしているそうだ。

フィンハウゼンには三人の息子があったそうで、かれらは1922年にジャガイモをオラ
ンダから取り寄せてジャガイモ畑を作った。それだけでなく、キャベツ・ニンジン・ナス
・大根・エンドウ豆などの野菜も植えた。

フィンハウゼンの農場が豊かな稔りを示し始めると、タケゴンで商品流通を支配していた
アラブ人・ムラユ人・華人たちがやってくるようになった。産品はメダンにも運ばれ、ま
たロスマウェから海外に輸出された。ガヨ産コーヒーが初めて海外に送り出されたのは1
929年だった。それから1938年までの9年間に輸出売上は累計で82,546フルデンに
上った。


日本軍がやってくると、日本人がコーヒー農園を掌握した。日本人の経営下にコーヒー栽
培がブランゲレの農園をはじめとしていくつか継続されたそうだが、戦争中の日本軍が農
園事業に人材をつぎ込めるはずがないから、多分最小人員で細々と行われたのではあるま
いか。輸出できる先は大東亜共栄圏の中だけだろうし、海上輸送はほんの短期間で危険が
いっぱいのルートばかりになったのだから、コーヒーを作っても無駄になるだけだ。コー
ヒーで腹が満たせるはずもない。

日本人が去ると、地元行政府が農園を握った。ブランゲレ農園はビルエンの事業者ニャッ 
マッムッに経営が委託された。しかし1964年に状況ががらりと変わった。新県令が旧
オランダ農園の土地を地元民に分配したのだ。そのとき、オランダ時代に農園で働いてい
た地元民たちが農業労働者から国有地の使用権を持つ独立農民に変化したのである。ガヨ
コーヒーはいま民衆農園で生産されている。[ 続く ]