「クンタオ(35)」(2024年01月12日)

それ以来十数年間が経過して、バンテンが示した数々の武勇伝が喧伝された。福建省南部
地方で敵なしと言われ、大勢の弟子を持つに至った。中でもシャオリムホーヤンパイの名
前を見下して蔑む者たちに怒りの鉄拳が飛ぶことが多かった。かれの町にやってきた膏薬
売りの行商人が「自分はグイ・ウンラムを倒した」と嘘の自慢をしているのを耳にしてさ
んざんにやっつけた話もある。

1927年、バンテンが41歳のとき、かれはふたたびジャワ島のスマランに向かった。
スマランに住んでいるヨー・キアンティンという面識のない人物からの手紙に動かされた
のだ。ヨーからの手紙には、ジャワ島で格闘試合の興行が行われていて、米国の黒人ボク
サーが中国拳法を馬鹿にする発言をしているので、真の中国拳法をジャワ島のひとびとに
示してほしい、という内容が書かれていた。

バンテンはスマランに行こうと思った。昔、自分を役立たずの余計者扱いした叔父の一家
に功成り名遂げた今の自分を見てもらいたい希望が心中に湧いた。恨みや憎しみを相手に
ぶつけて見返し、復讐しようという心理でなく、自分を見直してもらって親戚のつながり
を深めたいという気持ちだった。


その時期、中国で最初のバンテンの弟子になった甥のLo Boen Lioeはチルボンに移住して
いて、演武館道場を開き拳士としての名前もスマランにまで聞こえていた。

また別の甥のひとりでバンテンからクンタオの手ほどきを受けたLim Tjoei Kang林水港も
シンガポールに住んでいた。バンテンはシンガポールに住んでいる師叔のひとりSim Yang 
Tekにチュイカンの身を託していたのだが、自分がスマランでしばらく暮らす間チュイカ
ンを連れにしようと考えたのだ。そのために、ジャワを訪れる前にバンテンはシンガポー
ルに行ってシム師にチュイカンをしばらく貸してほしいと頼んだ。スマランで家族のいな
い孤独の身になるのだから、親族がいるほうが心強いし、またチュイカンにクンタオを指
導することで時間をもてあますこともなくなるだろう。シム師は最初難色を示したが、親
族の頼みを拒否するわけにもいかず、チュイカンをバンテンに委ねた。


スマランに着いてヨー・キアンティンの邸宅を訪れると、ヨーは大喜びですぐに闘技場を
設けて黒人ボクサーとの試合の企画を進めた。ところがオランダ政庁がその試合を禁止し
たのである。

バンテンは8ヵ月間くらいジャワ島に滞在してから中国に戻る予定にしていたが、ジャワ
島の華人社会がかれを放そうとしなかったために、結局かれはスマランに住み着くことに
なってしまった。家を借りてそこを診療所にし、中国医師としての暮らしを始めたのであ
る。腕のいい医者として、かれの診療所も繁盛した。そして暇を見つけては連れて行った
チュイカンにクンタオを教えた。クンタオを習いたいと言うひとびともたくさんやってき
た。


スマランに居を構えてからほどなくして、バンテンはとても気立ての良い娘を見つけた。
いつもひとに優しく振舞い、微笑みを絶やしたことがなく、品が良くてけじめをよくわき
まえている娘だ。名前をゴー・ビンニオと言う。仲を取り持つひとがあって、ビンニオが
バンテンの二人目の妻になった。翌1930年、ビンニオは男児を産んだ。この最初の息
子はシャウホンと名付けられ、この子が少年に育ったらクンタオをみっちり仕込んでユー
師匠の姓を継がせることをバンテンは計画した。

続く1931年に次男が生まれてシャウゴッと名付けられた。シャウゴッはクンタオと医
術の極意を父親から受け継いで、インドネシアでその後継者になった。[ 続く ]