「ヌサンタラのコーヒー(55)」(2024年01月12日)

英語ではMandheling と綴られるが、インドネシア語の正式名称はMandailingだ。マンダ
イリン地方はスマトラ島の脊梁山脈をなしているBukit Barisanの中央部北寄りに位置し
ており、現在は北スマトラ州マンダイリンナタル県をなしている。州の南西端にあって西
スマトラ州と境を接しており、文化的にはミナンカバウの薫りが混じっている地方だ。
マンダイリンナタル県の首府はPanyabunganに置かれている。パダンシデンプアンとブキ
ッティンギを結ぶ山中の街道にその首府が位置しているため、海岸までは50キロ超あっ
て遠い。

オランダ東インド政庁は1833年、ナタルの町を通ってマンダイリン地方に進出した。
そしてマンダイリン地方でのコーヒー栽培を1835年に着手する。オランダ国王が所有
するバタヴィアの商事会社Nederlandsche Handel-Maatschappij(通称NHM)がパニャ
ブガン南部のTano Batoでジャワから持ち込まれた苗の大量生産に取り掛かった。

1840年、強制栽培制度のシステムに載せられて、大量のコーヒー木がマンダイリンの
大地を覆うようになる。1848年には280万本のコーヒー木が年間9.3トンのコー
ヒー豆を生産した。コーヒー豆はタノバトに設けられた倉庫に貯蔵され、住民がそれを担
いで50キロ超離れたナタルの港に運んだ。そのクーリー仕事では、行って戻って来るの
に15日間を要したそうだ。

海岸部にあるナタルの港と行政の中心地を結ぶ道路をマンダイリンアンコラの副レシデン
だったアレクサンダー・フィリパス・ホドンAlexander Philippus Godonが建設させた。
ホドンは1848年から1857年まで副レシデンの職を務め、在任期間中に地元の経済
と福祉を向上させる諸政策を行なっている。

たまたまホドンが副レシデン在任中、ナタルでは後にマックス・ハフェラアルの著者にな
るエドゥアール・ドウス・デックルEduard Douwes Dekkerが監視官の任に就いていた。か
れの著書にはホドンも顔を出している。

ナタル時代のエドゥアール・ダウス・デッカーについて触れた拙作「ナタルのムルタトゥ
リ」(全5回)という作品が2020年3月3日から9日まで連載されているので、興味
のある方はご参照ください。


パニャブガンとブキッティンギを結ぶ街道から5キロほど離れた位置にあるタノバトのコ
ーヒー倉庫とナタルの港を結ぶことを主目的にしてその道路建設がなされたのであり、コ
ーヒー運送の効率向上がマンダイリンコーヒーのヨーロッパ向け船積み量を押し上げてヨ
ーロッパにその名を高めることに大きく貢献したと評価されている。

1875年にはヨーロッパ市場でマンダイリンコーヒーに1ピクル79フローリンの値が
付いたそうだ。1ピクルとはおよそ60キログラムのこと。

ホドンの業績によってマンダイリンにおけるコーヒーとカカオの生産は順調に発展し、住
民統治機構が作物生産ノルマ達成のためにしばしば地元民に与えていた苛斂誅求がマンダ
イリンではそれほど激しいものにならずに済んだという話もある。

ナタルの港で行われていたコーヒーの船積みは1886年になってシボルガに変更され、
マンダイリンからのコーヒー豆運送はシボルガ向けに送られることになった。


マンダイリンコーヒーという名称は厳密に言うならマンダイリン地方で生産されたものだ
けでなく、周辺のタパヌリやパッパッで作られたものも含まれていた。そもそもマンダイ
リンという名称を誰がどうして付けたのか、それすら曖昧模糊としている。

マンダイリンやタパヌリあるいはパッパッには日本軍政期が終わるころまでたくさんのコ
ーヒー農園があった。ところが21世紀の今日、それらの地域からコーヒー農園は消滅し
てしまっている。であるにもかかわらず、世界のコーヒー産業の中にマンダイリンという
言葉はいまだに確固として生き続けているのだ。

「わたしらはリントンニフタでコーヒーを作っていますが、やってくるヨーロッパ人やア
メリカ人はこれをマンダイリンと呼ぶんですよ。われわれはこれをリントンと呼ぶように
アピールしているけれど、外国のコーヒー業界者はなかなか聞いてくれませんね。」リン
トンコーヒー生産者のひとりはそう嘆いている。数人の仲間たちと一緒にアラビカ種のリ
ントンコーヒーを毎年120トン輸出しているかれの産品は国外でマンダイリンの名前で
販売されているようだ。まったく離れた遠い土地の名前が自分の産品に使われ続けている
その状況に生産者は不満を抱いている。[ 続く ]