「ヌサンタラのコーヒー(56)」(2024年01月15日)

かれはまた、自分の家系がコーヒー生産を家業にしていることについて、いつから始まっ
たのかよくわからないものの、ともかくとても古い先祖からこの家業が続けられてきたと
語っている。オランダ人がスマトラ島西岸地方にコーヒーをはじめて持ちこんだのではな
いとパダンのアンダラス大学歴史学者も述べている。
「ミナンカバウ人がメッカ巡礼に行った帰りにコーヒーの種を持ってきた。18世紀初め
ごろにはスマトラ島西岸部にコーヒーの木が既に生えていた。1789年にはパダンでコ
ーヒーが売買されており、その翌年には米国の商船がコーヒーを積み込んで出港した記録
が見られる。
オランダ人がコーヒーの強制栽培制度を1847年に開始した結果、コーヒー栽培は北の
タパヌリ地方に拡大して行き、スマトラ島西岸地方のあちこちで見られるようになった。
マンダイリンというブランド名は元々マンダイリンの奥地で栽培されたものがそう呼ばれ
ていたのだが、栽培が周辺地域に広がったあとは周辺地域の産品も含めてそう呼ばれた。
マンダイリンの奥地で生産されたコーヒー豆は3〜4トンの船に載せられ、川を下ってナ
タルの港に運ばれた。そしてナタルからは海路パダン港に送られてパダンで外航船に積み
込まれた。1880年にドイツ人が書いた報告書の中にマンダイリンコーヒーの名前が見
つかっている。
最初ミナンカバウ人が植えたコーヒーはアラビカ種だったのだが、後の時代にオランダ人
がロブスタ種への植え替えを強制した。世界で好まれているのがアラビカ種だったために、
マンダイリンの農園は衰退に向かった。」

北スマトラ州中央に位置するトバ湖の西側に連なる山岳地帯に北スマトラを代表するコー
ヒーの産地が帯状に繋がっている。トバ湖の北端に近い位置にシディカラン、トバ湖南岸
から近い位置にリントンニフタ、南に下ってタルトゥン、タルトゥンからパダンシデンプ
アンまでの間にシピロックと並び、パダンシデンプアンからずっと下った場所がマンダイ
リンという位置関係になっている。


リントンニフタで生産されているアラビカ種のコーヒーは最初、VOCが1750年にス
マトラ島に持ち込んで紹介したものと言われている。しかしリントンで生産が始まったの
は1800年代に入ってからだという話もある。リントンではアラビカ種の生産が続けら
れている一方、近隣の別の地方の中にはロブスタ種を栽培しているところもある。リント
ン産のコーヒーは国際市場でSumatra Blue Lintong, Sumatra Lintong Mandheling, Blue 
Batak, Sumatra Bean Coffeなどと呼ばれている。

メダン市内にあるスターバクスの店では、リントンアラビカコーヒーがSumatraとSumatra 
Decafという名称で販売されている。しかし包装デザインは豪華で他の銘柄よりも高級感
を漂わせており、もちろん価格も豪勢だ。

リントンニフタでコーヒーを生産している別の生産者は、スターバクスでコーヒーを買っ
たり飲んだりしたことが一度もないと言う。かれはコーヒー豆をただ売るだけであり、自
分の家で使うコーヒーすらパサルで粉を買って来ているから、自分が飲んでいるコーヒー
がリントンなのか違うのかもよくわからないと述べている。自分で焙煎までする気はどう
もないようだ。必然的に、輸出された自分の豆がどんな商品にされ、どんな名前で売られ
ているのかも分からない。われわれはスターバクスの例から、リントンのクオリティとそ
の評価をうかがい知ることができる。おまけに廉価に販売された豆がたいへんな価格で逆
輸入されていることも。


シピロッでのコーヒー栽培は1800年前後にオランダ人が始めた。シピロックで生産さ
れたコーヒー豆はマンダイリンに送られ、マンダイリン産のものと一緒にナタルの港から
船に積まれた。スマトラから送られてきたコーヒー豆の全部がマンダイリンコーヒーと輸
入地で呼ばれたのだから、シピロッという地名が国際市場に登場する幕はなかったにちが
いない。

専門家によれば、シピロッコーヒーは花とレモンのアロマが特徴的なのだそうだ。シピロ
ッ地方もルアッコーヒーが有名だ。アレンヤシの木からグラメラを作る生産者たちは、収
穫期にヤシの木の上でルアッの排泄物をしばしば発見する。おかげでそれがグラメラ採集
者たちの追加収入になっている。韓国をルアッコーヒーのブームが襲ってから、シピロッ
産ルアッコーヒーは海外でも名を知られるようになった。[ 続く ]