「ヌサンタラのコーヒー(57)」(2024年01月16日)

ミナンカバウのコーヒーの産地はSolok, Tanah Datar, Limpuluh Kota, Solok Selatan,  
Pasamanの6地方とされている。州庁データによれば栽培総面積2万ヘクタール、年産1.
5万トンで、2013年から2015年までの3年間にソロッアラビカコーヒーがオース
トラリアに22トン、タイに2トン、イタリアに1.5トン輸出された。

オランダ人が商品作物としてコーヒーの栽培をミナンカバウ人に紹介する前に、ミナンの
民衆はコーヒーの木を既に知っていた。メッカ巡礼に行った者がアラブからコーヒーの種
を持ち帰って栽培したのだ。だから最初にミナンの地に生えたコーヒーの木はアラビカ種
だった。パダンのアンダラス大学歴史学者グスティ・アスナン教授は語る。
「18世紀までミナン人はその木の実が商品価値を持っていることを知らなかった。まし
てや、その豆で飲料を作ることも行わなかった。ミナン人はコーヒーの葉でコーヒーを作
って飲んでいたのだ。
18世紀に米国人がアラビカ種のコーヒー豆を求めてやってきた。外国人商人たちはコー
ヒーの葉を買わないで豆を妥当な価格で買った。そのとき、ミナン人の前に新しい世界が
開かれた。ミナン人は続々とコーヒーの木を育てるようになった。
最初はアラビカ種だったミナンのコーヒー木も、オランダ人がヌサンタラの広範な地域に
アラビカ種の栽培を進めた果てにサビ病が蔓延して甚大な被害が出た結果、全土でロブス
タ種への転換が行われたため、今ではミナンカバウでもコーヒー木はロブスタ種がマジョ
リティを占めている。」


パドリ運動とその民衆生活への影響に関する考察を論文にまとめた西洋人研究者はその論
説の中で、ミナンカバウでファン・デン・ボシュの栽培制度は1834年に開始されたが、
結局1839年に失敗したと書いている。当時まだ支配権を完全に掌握できていなかった
ミナンカバウに対するコーヒーをはじめとする諸作物の強制は及び腰になり、バタヴィア
の商社NHMを介在させて保護的価格を適用したにもかかわらず、オランダ東インド政庁
は良い結果を得ることができなかったようだ。

ミナンの地でファン・デン・ボシュの栽培制度が強制され始めたのは、1847年11月
1日にスマトラ西岸地方統督アンドレアス・フィクトル・ミヒュース(Michiels)が発した
決定書による。その決定書は、コーヒー栽培に妥当な土地と環境を有している住民は各戸
150本のコーヒー木を栽培し、収穫のすべてを要所の町に設けられた倉庫に納めなけれ
ばならず、倉庫は政庁が定めた価格で買い上げるという内容になっていた。

しかし初期のころに各倉庫は高品質の実だけを買い上げるようなことをした。また政庁が
定めた価格はパダンにやってくる非オランダ人コーヒー買付人が買い取る価格の三分の一
程度のものになっていた。

西スマトラ州議会議長はコーヒーについてこうコメントしている。オランダ時代より前の
ミナンカバウの民衆にとってコーヒーは経済発展と福祉向上に大きい役割を果たしていた。
コーヒー畑がミナンの大地の隅々まで広がって行き、篤信の民衆は何度もメッカ巡礼に上
ることができた、と。


他の地方にあるクダイコピやワルンコピもミナンカバウにある。ただし地元民は誰もがそ
んな名称で呼ばず、ラパウと呼んでいる。ミナンカバウ語lapauはクダイやワルンと同じ
意味の言葉だ。そしてミナンのラパウも他地方のクダイコピやワルンコピとまったく類似
の社会的機能を果たしてきた。コーヒーを飲みながら既知未知の人と世間話をし、情報交
換する社会交際の場をラパウが提供したのである。

ミナンカバウ社会にコーヒーを飲む習慣が広がったのは19世紀だった。もちろん焙煎し
た豆で作ったコーヒーのことだ。それ以前はコーヒーの葉で作るカワを一部の人たちが飲
んでいた。[ 続く ]