「クンタオ(終)」(2024年01月16日)

まだ小さい子供二人を連れてバンテンとビンニオが中国に到着した。そのときバンテンは
自宅に戻る前にユー師匠の墓に詣でて、この長男のシャウホンを師の跡継にすると宣誓し
た。それから自宅に着いて7ヵ月ほど逗留している間、ジャワの性悪女と言われていたビ
ンニオの素顔に接した親族一同は誤解を解いた。

ホンランもスマランで自分が受けたような待遇をビンニオにお返しした。ところが第一妻
が年下の第二妻をかいがいしくお世話する様子を見た親族が、やっていることがおかしい
とホンランを批判した。第一妻は大奥様というのが中国の常識なのだ。しかしホンランは
それに反論した。「あなたはわたしがスマランでどれほど親切にされたのかを見ていない
からそんなことが言えるのよ。姉が仲良しの妹を大事にしてあげても、何もおかしいこと
はないでしょう?」


スマランに戻る時期が近付いたとき、ホンランはビンニオに自分の希望を打ち明けた。子
供のひとりを自分にくれ、と言うのだ。「あなたは若いからこれからもまだ子供を作るこ
とができる。だが自分にそれはもう無理だし、バンテンの実子が自分の老後に関りを持っ
てくれることのほうが喜ばしい。それにあなたの実子が中国にいることはあなたを中国に
来させる理由になるのだから、そこでわたしたちもまた再会できることになる。わたしを
本当に仲良しの姉だと思ってくれるのなら、わたしのお願いをかなえてもらえないかしら。
考えてみてくださいな。」

ビンニオは答えに窮した。ともかくバンテンと相談することにしてその話は終わった。自
分の母がこのふたりの孫をとても可愛がっているのだ。それでもビンニオはホンランの願
いをかなえてあげようと思った。だがどちらの子を中国に残すのがよいのだろうか。

赤ちゃんのシャウゴッの方がまだあまり物事を覚えていないから、実の親と別れてもトラ
ウマが軽いのではないかというのがバンテンの意見だった。ビンニオもそれに賛成した。
ビンニオの結論にホンランは大喜びになった。ところがシャウゴッを残して出発する準備
をしていたとき、この赤ちゃんが激しい下痢に襲われた。出発の当日になっても下痢は収
まらない。ホンランは途方に暮れた。この病気をどう治療してやればよいのか、わたしに
は解らない。やはり実の親に診てもらうのが一番いいと思う。シャウホンをわたしに残し
てもらえないだろうか。

バンテンとビンニオはホンランの頼みを受け入れざるを得なかった。赤ちゃんを抱えて船
に乗ったあと、しばらくしてふと気が付くと下痢は止まっていた。バンテンは感心したよ
うに語った。「ハイヤー、ユー師匠の神通力はたいしたものだ。跡継のシャウホンを自分
の近くに置きたかったんだろう。」


バンテンとビンニオの間に三人目が生まれたのが1934年で、そのあと続々と9人が生
まれて男女総勢12人になった。1938年、バンテンの一家はバタヴィアに移った。チ
ルボンのロー・ブンリウがバタヴィアのコンシブサール地区に移っていたので、バンテン
の一家もそこに合流したのだ。

ところが日本軍のジャワ島進攻から逃れるために1941年にバンテンの一家はソロに移
った。ソロとジョクジャはオランダ王国の植民地になったことがない。オランダ植民地政
庁の操り人形になっていても、形式上は独立した現地の王国であり、オランダ王国の主権
は及ばない土地なのである。ソロで中国医になっていたチュイカンにバンテンの一家は頼
ったようだ。

日本軍政時代が終わると、バンテンの一家はまたジャカルタに移った。バンテンはジュラ
ケンで薬屋を開いている。そして1958年7月27日にバンテンはジャカルタで永眠し
た。享年72歳。かれの遺体はムアラカランの火葬場で荼毘に付された。そのときの薪の
量が半端でなかったという話だ。バンテンの子孫は今もタングランのモデルンランドに住
んでいる。[ 完 ]