「退化の罠と進歩の流産(終)」(2024年01月19日) 改善のためのふたつの提案をここに示したい。ひとつ。国会にいるわれわれの立法者たち は権力をもてあそぶ専門技術に巧みな、しかし自分が行う権力ゲームの結果が国民にどの ような負担をもたらすかということに対する感受性の皆無なmachttechniker(権力技術者) になることよりも、国民の代表者であるという大切な義務を思い返すべきだ。ブンカルノ が説いたように、権力のない政治はナンセンスであるためにmachtsvorming(権力争奪) は政治における重要事なのである。ただしその権力争奪の中には、machtsaanwendingつま り公共利益のために権力を用いる能力が付随しなければならない。なぜなら権力を正しく 用いる能力を持たないとき、国会の立法者たちは自分で運転できないスーパーカーの持ち 主のようなふるまいを犯すだろうからだ。高級車ジャグアJaguarの運転方法を知らない持 ち主が公道をドライブすれば、大勢の通行人をひき殺すだろう。 ふたつ。進歩の流産サイコロジーは長期レンジの中で克服されるべき強い必要性を持って いる。政治の中で期待される目的が、その目的や結果のリスクを背負う用意のないひとび とによって道半ばにして流産させられないときにはじめて、新しいポリティカルウイルは それぞれが意味を持つのである。 去る10月20日にジョコウィとユスフ・カラが正副大統領に任じられた直後、一二年後 にインピーチメントを行なって失脚させるとか国会多数派のパワーで政策の実行を困難に するといった計画が立てられたようだが、そんなことをしても何の進歩も得られない。 この種のことがらに関して米国などの先進国では国益と呼ばれるものが尊重されている。 理念や利益にどれほどの違いがあろうとも、個々人は国益であると確信するものごとを高 く奉じるのである。キャンペーン期間中から投票日までを通して大統領の座を激しく争っ て敗れた者は、国民が選んだ大統領に敬意を表し、大統領が助力を求めればそれに応じる のである。もしもわれわれがそれをしないなら、われわれが国民政治の中で望んでいるも のごとの実現に自分で障害を与えているために、われわれは進歩の流産の中にいつまでも 閉じ込められる。 国家の統率という場においては、自分の権力やイメージの保全のためのやりくり行動でな くて、国益の生きた実例としてあらゆる国民に歓びをもたらすような努力がなされなけれ ばならない。われわれが望んでいるのは、危機的状況の中で決断し、確信を持って「わた しの責任はこれだ。」と語る勇気を持つ指導者の存在なのだ。指導者がありとあらゆるも のごとを説明する必要はない。しかしかれが口から発する言葉は全国民が信じて各自の拠 り所にし得るものでなければならないのである。[ 完 ]