「1889年のパリ観光(1)」(2024年01月22日)

大博覧会の構想が最初に実現されたのが1851年のロンドンだった。公式名称はもちろ
ん英語でThe Great Exhibitionと称した。フランス人が第二回目を1855年にパリで開
催した。名称はもちろんフランス語のExpositions Universellesだ。それ以来数年に一度、
われこそはという国がさまざまに大博覧会を催した。1900年までの半世紀を見るとフ
ランスでの開催頻度が5回にのぼり、パリがいかに世界の花形都市「華の都」の座を謳歌
していたかをひしひしと感じさせてくれる。

20世紀に入ると世界の勢力マップはまた変化して、フランスはワンノブゼムの地位に滑
り落ちて行くことになる。盛者必衰は世のならいなのである。


フランスは4回目のパリ万国博覧会を1889年に開催した。オープニングはその年の5
月5日で、閉幕は10月31日。さらにこの万博のために新たな観光スポットとして世界
でもっとも高いエッフェル塔が3月31日にオープンしている。

その機会をとらえて世界中からたくさんのひとびとがパリにやってきた。フランスの観光
収入は膨れ上がった。観光客は世界最先端の文明都市であるこの華の都を満喫し、その当
時の世界スタンダードを一歩先んじているフランスの文化生活を肌で感じ、人類にとって
の近未来のショーケースを自分たちの住んでいる世界に実現させるべく、夢を描いて帰国
して行った。

オランダ東インドに住んでいるひとびともやってきた。オランダ人や他のヨーロッパ人は
言うに及ばず、かれらと日常的な接触を持っているプリブミ知識人階層も資金が許すかぎ
り憧れのヨーロッパを見物するために船に乗った。プリブミとは言っても、中華系アラブ
系プラナカンを含む非白人階層をここでは指している。


バタヴィアで発行されている新聞Bintang Baratに1889年、パリ観光記が連載された。
同じ記事はスラバヤの新聞Bintang Soerabajaにも数週間遅れて、9月26日から10月
12日まで連載された。筆者のTan Hoe Loはパリで観光中に記事原稿を書き、それをバタ
ヴィアの新聞社に送っていたようだ。

このタン・フーローという人物はバタヴィアの著名な実業家のひとりだった。ホテル「デ
ルネーデルランデン」のオーナーであり、パサルバルとパサルスネンに輸入商品販売店を
持ってタイプライター・銃・吊りランプなどの高額商品を販売していた。タングラン地区
トゥルッナガの地主でもあり、レッナンチナの地位に就いたこともあるらしい。

1894年のBintang Betawiに出た新聞告知によれば、シンガポールで発刊されたばかり
のムラユ語新聞Bintang Timorのバタヴィアにおける独占代理権をかれが所有しているこ
とが報知されている。

非白人ながらプリブミ上流知識層に属すタン・フーローは普段から白人と対等な交際をし
ていた。バタヴィアでの社会交際において、白人から二級人種という差別待遇をされるこ
とはなかったのだろう。だから同じ東インドからやってきたオランダ人大地主の一家や東
インド評議会オランダ人メンバーの一家と同じホテルに泊まり、食事の際には同じテーブ
ルに就いて互いに言葉を交わしていた。そういったことがかれの記事からうかがえる。


1889年8月11日(日曜日)、われわれはみんなで万博会場に行った。わあ!日曜日
は本当にたいへんな人出だ。12万5千人くらいが会場を訪れた。会場に入るゲートは2
2ヵ所設けられている。日曜日には会場内に設置されている噴水がすべてフルオープン。
龍・獅子・虎・亀などがみんな口から水を噴出させている。実に素晴らしい。

建物のひとつに入るとそこはタバコ工場で、庭にはタバコが植えられてタバコ畑のように
なっている。そこから葉を摘み、機械で乾燥させ、別の機械で刻み、次の機械で紙に巻か
れてシガレットができ、それがまた機械で箱に詰められる。機械は実に繊細に動き、商品
がどんどん作られて、あとは売るばかりになる。

そこを出て、次はダイヤモンド工場に入った。地中から掘り出されたばかりのダイヤモン
ドを機械が研磨している。ほんのわずかの間に美しくきらめくダイヤモンドができあがっ
た。エッフェル塔をかたどった50センチくらいの箱が8個あり、そこに種々の大きさの
ダイヤが敷き詰められている。中にはブドウの葉に大小のダイヤがセットされたものもあ
る。いったい何個のダイヤがそこにあるのだろうか?[ 続く ]