「1889年のパリ観光(2)」(2024年01月23日)

別の場所では、ありとあらゆるさまざまな形や意匠を手書きしているひとの実演を見学。
手の動きはとても素早く、紙の上にきれいに整った図がすらすらと作られて行く。たいへ
んな技術だ。

次の建物には、大理石で作られた絵が展示されている。素晴らしい出来のものばかり。中
には1万フランの値札が付けられているものもあった。その次の建物では機械を使って糸
や布を作っている。その次は陶器の皿やガラス器。そのあとはさまざまな手編みのレース
製品。日本中から集められたレースも陳列されていて、中には値段の張るものも見られた。

銃・拳銃・ナイフ・はさみ・その他道具類の建物に入ったときには、われわれの足はもう
くたくた。ザドゥルホフさんのご一家も「見るものがたくさんありすぎて、何を見たらい
いのか、もう目移りして焦点が定まらない。」とおっしゃる。

すると他のひとが建物用のガラス板を見に行きましょうと誘ったので、別の建物に移動。
厚さ25センチ幅3.5メートル長さ8メートルのガラス板があった。こんなすごい品物
はまだバタヴィアにやってきたことがない。そのあとわれわれは車両工場と紡績織布工場
を回った。機械は実に軽やかに働いて製品を作って行く。

そこを出てからわれわれはジャワ・スマトラ・バタヴィアから送られてきたさまざまな品
物の展示場に入った。トリコ布やアイスペーパーなどを作る機械が用意され、ひとがそこ
に付けられて実演を来場者に見せていた。客は半製品が製品になるのを見学していた。


あちこちを見歩いているうちに、夕方の6時になった。ホテルに戻って食事をしようとザ
ドゥルホフさんがわれわれを誘った。ところがふと気が付くと、かれの奥さんとふたりの
お嬢さんが見当たらない。あふれんばかりの人間の大海の中に隠れてしまったのだ。われ
われみんな、手分けして探したが見つけることができない。どうしたらいいだろうか?す
るとザドゥルホフさんが言った。「探す必要などありません。疲れるだけだから。われわ
れが死ぬまでこの人間の大海の中を探したところで見つかりっこない。妻は自分でホテル
に戻れるんだから大丈夫ですよ。」

わあ!人間の大海では大混乱が起こっている。ある紳士は同行の友人とはぐれ、子供が迷
子になり、妻が夫を探し回る。ステッキ・帽子・傘などに印をつけて、それを高く掲げて
目印にしているひとがあちこちにいる。はぐれた者がそれを見て、そこにやって来るのだ
ろうか?それは頼りにならない。こんなに巨大で広い場所に人間がひしめいていて、息苦
しいくらいなのだ。どんなに注意していようが、あっちを見たりこっちを見たり、ふらふ
らとうろついている間に連れもいつの間にかはぐれてしまう。

われわれとザドゥルホフさんがホテルに戻ったとき、かれの奥さんと子供たちはもうホテ
ルに帰っていた。奥さんは自分も夫を探したと弁明し、こんな目印を付けて高く掲げたと
言ったときには全員が大笑いになった。


1889年8月12日(月曜日)、今日は博覧会に行かず、みんなでトラムに乗って町に
出た。ブルスでトラムを降り、そのあたりの小さい店を見て回った。そして買い物をして
から切手を買ってバタヴィアに送ってもらい、それからホテルに戻った。

ホテルの食堂のテーブルは28人掛けだ。28人の客に男女のサービス係がたったふたり
で応対する。仕事はとてもてきぱきしており、そして確実。誰かが何かを頼むとすぐにそ
れがテーブルに置かれる。皿を取り換え、ナイフとフォークを取り換え、食べ物が運ばれ
てくる。バタヴィアだったら、6人でサービスさせても大混乱だろう。いつまで経っても
皿が取り換えられなかったり、いつまで待ってもフォークがもらえなかったり。まあそん
なところだ。

メステル ティモン・ヘンリクス・デル キンデーレン閣下と奥様およびふたりのお嬢さん
が毎回食事のとき、われわれの対面にお座りになる。閣下がぽつりぽつりと赤痢のことを
お尋ねになるので、われわれが持っている治療薬のレシピ本をお貸しした。[ 続く ]