「ヌサンタラのコーヒー(63)」(2024年01月24日)

年間8万トンのコーヒーを生産しているBengkulu州はかつてヌサンタラで第三位の生産量
を誇っていた。ロブスタ種がマジョリティを占めているものの、アラビカ種も、いやそれ
どころかリベリカ種さえもが生産されているのだ。

ちなみに生産量について語るなら、昔は全国州別ランキングの首位がランプン州、二位南
スマトラ州となっていて、スマトラ島南部三州がゴールデントライアングルを形成してい
た。今その様相は少々変貌している。ロブスタ種についてはその全国生産の7割がブンク
ル州産で占められていると州知事が述べたこともある。

州内を代表するコーヒーの産地はKepahiang、Rejang Lebong、Bengkulu Utaraと続く諸県。
海抜7百から1千5百メートルの高地にある民衆農園や畑でオーガニック栽培されたコー
ヒーはレモン・カカオ・ハーブのアロマを持っていて、ヌサンタラのコーヒーに豊かなバ
ラエティを添えている。クパヒアン産のロブスタが2016年に国内のコーヒー産業協会
が催した品評会で最優秀賞を得ており、世に名前の知られた諸産地のものと比べて品質的
に劣っているわけでもない。


ブンクルのコーヒーの歴史はこの州が持った歴史と深く関わっている。ブンクルは168
5年以来140年近くに渡ってイギリスの支配する土地になっていたのだ。その最盛期に
北はミナンカバウとの境界線から南は西ランプンの南端海岸線までを支配下に収めていた
この領地をイギリス人はベンクーレンと呼んだ。ベンクーレンはインド亜大陸で植民地経
営を行なっていたイギリス東インド会社East India Company (EIC)の支配地だった。

1805年9月27日、ベンクーレンの行政長官だったウォルター・ユーワーの後任とし
てベンガルの知事だったトーマス・パーが赴任して来た。かつてイギリスに大量のコショ
ウをもたらしたベンクーレンの栄光を復活させようと考えたパーはアグレッシブなアプロ
ーチを開始する。

そのころヨーロッパでコーヒーが爆発的な流行を示しており、コーヒー豆の供給が大きな
経済性を持っていることは誰もが理解していたから、パーもベンクーレンでのコーヒー生
産に焦点を当てた。パーは領民に既存のナツメグとクローブの農園を拡張するよう命じ、
広げた土地にコーヒーを栽培させたのである。そればかりか、領民の全家庭にコーヒー木
を栽培させる命令を発布した。イギリス式の強制栽培制度が開始されたのだ。戸主の社会
ステータスに応じてコーヒー木の数が定められた。

いくつかの部落で命令を忠実に実行していない家があるのが見つかると、パー長官は不服
従者に体罰を命じた。縛って天日干しにしただけでなく役人に殴らせ、渇した者にはパー
が排泄した小便を飲ませたという話が語られている。暴力的で嗜虐的な独裁者の顔がプリ
ブミ民衆の目の前にさらけ出され、傲慢なレーシストである支配者をブンクルの民衆は憎
んだ。

善政を求める住民の声が強まった結果、ドゥスンブサール地方の民衆統治を司っているア
ディパティが忠告をしようと考えて行政最高官のパーを宴に招いたというのに、パーはそ
の招待を頭から無視したそうだ。

ラフルズが1818年にベンクーレン行政長官として赴任したとき、後妻のソフィアが随
伴した。レディ ソフィアは自分の備忘録に、長期にわたってイギリスと関係を保ってき
た地元のアダッ長老や貴族たちを少しも意に止めずにトーマス・パーは自分の方針を押し
通した、と書いている。「パーは原住民の裁判制度をプリブミ要人の誰にも諮らずに変更
した。原住民はクライシスの中に追い込まれて反乱の火種がくすぶり始めたにもかかわら
ず、パーはそのリスクを意識していなかった。」
[ 続く ]