「ヌサンタラのコーヒー(64)」(2024年01月25日)

ブンクル民衆の反抗姿勢が強まると、力には力を持って抑圧する方針をパーも保持した。
駐留EIC軍がイプとムコムコに出兵して原住民の武力蜂起を鎮圧した。ところが事態は
収拾されなかったのである。ブンクルの民衆は羊のような民ではなかった。

各地方・各村・各部落が共通の敵に向かって一致団結した。パーを地獄に落とさなければ
ならない。一方、パーの側も反乱が全住民挙げての総力戦に向かいはじめたことを察知し
ていた。EICのセポイ軍・ベンガル軍・ブギス傭兵部隊が防御態勢を固める。ところが、
パーに職務停止を命じられた傭兵部隊指揮官のひとりが寝返って原住民側に走った。

パーはコーヒー強制栽培制度の命令書を取り消す決定を発布したが、原住民側にはよく伝
わらなかったそうだ。たくさんの原住民が取り消し措置が行われたことを知らなかった。
1807年中旬、民衆統治者であるアディパティたちがいくつかの地方で反イギリスの旗
幟を鮮明にし、住民を率いて武装蜂起することを計画した。かれらはアダッ長老を誘って
一堂に会し、反イギリス徹底抗戦を申し合わせた。原住民社会の上流層・貴顕・青年リー
ダーたちがそれを支持した。


そんなバックグラウンドを踏まえて、抗イギリス戦の中心にいるひとびとがトーマス・パ
ー暗殺計画を練り上げた。パーの居館であるマウントフェリクスの長官邸に夜間襲撃をか
けるのだ。期日は1807年12月23日とされた。

パゲラン ナタディルジャ3世、ラジョレロ、アディパティ スカラミの3人が実働隊の指
揮を執り、襲撃隊はイギリス側の不意を衝いて長官親衛隊を壊滅させた上で長官邸に進入
した。パーを処刑するために3人の指揮官だけがパーの寝室に入った。

パーの副官チャールズ・マレーとパーの妻のフランセス・パーがトーマスを守ろうとした
が、副官はすぐに倒され、フランセスも軽い傷で動けなくなり、かれらの眼前でトーマス
・パーが殺害された。死体には頭がなかったそうだ。この襲撃は短時間で終わった。

EICは治安回復のために即座にベンガル軍海兵隊2個連隊をベンクーレンに派遣し、ト
ーマス・パー殺害者と中心的反乱者の捜索を行った。イギリス人将校に率いられたインド
人兵が村々を捜索し、不審な人間は吊るされるか、あるいは大砲の前に立たされて砲弾で
微塵にされた。EICはパーの功績を記念するため、マルボロ要塞の近くに記念廟を18
08年に建設している。

ブンクルのコーヒー栽培はイギリス人トーマス・パーに負っている。1824年の英蘭協
約によってイギリス人は1825年にベンクーレンをオランダ東インドに引き渡し、オラ
ンダは労せずしてブンクルのコーヒー生産を手に入れた。それでも、コーヒーがブンクル
の民衆に経済的繁栄をもたらしたのは1913年になってからのことで、その間のおよそ
90年間はオランダ王国を繁栄させるだけのものだったようだ。[ 続く ]