「ヌサンタラのコーヒー(65)」(2024年01月26日)

いまのインドネシア最大のコーヒー生産州が南スマトラだ。2022年中央統計庁データ
では年間生産量が21.2万トンとなっており、2位のランプン州12.4万トンに大き
く差をつけている。州内県別番付では、Ogan Komering Ulu Selatan県が6.2万トン、
それに続いてEmpat Lawang県5.4万トン、さらにMuara Enim県2.8万トン、Lahat県
2.2万トン、Pagar Alam市2万トンといった数字が並んでいて、25万Haのコーヒー栽
培面積はそれらの生産県を中心に分布し、ヘクタール当たりの平均値としては1千4百本
のコーヒー木から8百キロの実が収穫されている。

ほとんどが小規模農家である生産者は収穫したコーヒーを乾燥豆にして地場の仲買人に売
る。各地場の仲買人が集めた実を中規模仲買人が買い集め、それを州規模の流通業者が受
けて選別し、輸出業者や国内メーカーなどに向けて振り分ける。その中には、ランプンや
近隣他州の流通業者が注文量を満たすために買い取るものも混じっているので、マーケッ
トでわれわれがランプンコーヒーと銘打たれているものを買っても本当にランプン産なの
かどうかは分からない。

もちろん地場の仲買人がストレートにランプンに売るようなこともする。何の決まりがあ
るわけでもないから、何でもありのインドネシアがそこにも出現する。それはともかくと
して、そんな長い流通ルートを経る南スマトラのコーヒーは生産者価格が低くなって当然
であり、南スマトラのコーヒー生産農家は他州に比べて収入が小さくなる傾向を避けられ
ないだろう。


オガンコムリンウルという名称が長いために頭字語OKUが使われるのが普通の習慣なので、
ここでもオクと省略することにしよう。コーヒー筆頭生産県の南オクでは最初、オランダ
時代にコーヒー農園がシパトゥフ村に作られ、オランダ人管理人がその村に住んだそうだ。
今でもシパトゥフ村が同県のコーヒー生産中心地になっている。

そのコーヒー農園は共和国独立後に地元農民に分配されたようで、県内コーヒー栽培総面
積9万Haはすべてコーヒー生産農家が運営している。南オク県の農家の大半がコーヒー農
民なのだそうだ。

ウンパッラワン県は昔ラハッ県に含まれていたが2007年に分離して県に昇格し、トゥ
ビンティンギに県庁を置いた。トゥビンティンギはオランダ東インド政庁が要衝として一
目置いていた町であり、南スマトラをレシデン統治区にしたとき首府をパレンバンに置い
たものの、1870年代に首府をトゥビンティンギに移して南スマトラレシデン統治区に
変更することが検討されたそうだ。しかしそれは実現しなかった。

オランダ時代からコーヒー栽培が始められたウンパッラワン県では、住民が代々コーヒー
農民の家業を続けている。世代交代で親から子に家業が引き継がれるのは普通のできごと
だが、子供のひとりが独立してコーヒー生産農家になろうとしたとき、親は独立する子供
のためにコーヒー畑の土地を用意する習慣がある。

子供は小さいころからコーヒー栽培を教えられ訓練される。伴侶になる娘にも同じように
教育訓練が与えられる。いざ独立の準備が整ったとき、それはつまり親が持っているコー
ヒー栽培用地の中で使われていない土地が独立する子供のために整地されることをも意味
しているのだが、その新しく用意された山中の土地に新婚のカップルが入植するのである。
ふたりはその土地でコーヒー園を営み、コーヒーがはじめて結実する4年後に山を降りて
集落に新家庭を築くのだ。


パレンバン市内にはGedung Jacobsen Van Den Bergと呼ばれている1800年代に建てら
れた建物があって、オランダ人が1960年まで商館として使っていた。そのおよそ15
0年間に通商ネットワークは広範囲に広がり、バタヴィアは言うに及ばず、ニューヨーク
・リオデジャネイロ・サンパウロ・ブエノスアイレス・モンテヴィデオ・シンガポール・
クアラルンプル・ペナン・香港・東京・大阪・神戸・シドニー・メルボルン・ブリスベン
などに向けて南スマトラの物産が輸出されていた。その中に、パガララム、ラハッ、スム
ンド、南オクなどで産するコーヒーの実も含まれていた。[ 続く ]