「印尼華人史と華人新聞(1)」(2024年01月29日)

19世紀後半にムラユ語新聞がジャワ・スマトラ・シンガポール・マラヤ半島などで活発
化し始めると、社説・論説あるいは報道記事や宣伝広告のかたわら、小説や詩なども豊富
に掲載された。その中に華人プラナカンの作品もたくさん混じった。それが後の時代に華
人ムラユ文学というひとつのジャンルとして分類され、研究される対象になった。

1880年代に入ってから、現代のわれわれがルポルタージュと呼んでいる種類の記事が
新聞の中に出現し始めた。あまりひとの行かない地方を商用で訪れた商人が見聞録や旅行
記を書いて新聞に発表することが起こるようになったのだ。その動きは華語・英語・ムラ
ユ語などの新聞で同じように目にすることができた。

初期のものとしては、1888年にマラカの華人ババのひとりタン・キオンスムがシンガ
ポールの華語新聞Lat Poに発表したアンナンへの旅行記がある。翌年にやはりマラカのバ
バであるリー・チンフイもLat Poにもっと長く遠い旅行記を発表した。かれは中国と日本
にまで商用の旅をしたのだ。

Lat Poはシンガポールで1881年に発刊されたマンダリン語新聞で、[口力]+報という
漢字がタイトル名に使われた。長命だったこの新聞は1932年に廃刊になった。ラッは
ムラユ語Selatから摂られたものだと説明されている。イギリス海峡植民地マラカのムラ
ユ人はシンガポールをSelatと呼んでいたので、華人もそれに倣ってシンガポールをスラ
ッと呼ぶことがしばしば行われていた。その結果、シンガポール新聞という意味でLat Po
と命名されたという解説がネット内に見られる。Lat Poの綴りはムラユ語の表記であり、
英語ではLat Pauと綴られている。

そうなると、British Straits Settlementのストレイツはマラカ海峡を指しているのだろ
うか、それともシンガポールを指しているのだろうか、という疑問がわたしの頭に浮かん
だのだが、ムラユ語Selatと英語Straitsが同根でなければならない必然性もなさそうだ。
それはともかくとして、それよりもっと長旅の記録は、米国へ行って1895年に戻って
来たシンガポールの実業家タン・フップリオンがストレイトタイムズに発表したものだっ
た。かれはシンガポールのある船会社の株主で、新聞社に依頼されて世界周航旅行記を書
いた。


インドネシアでは1836年ごろにブンクルで生まれた華人プラナカンのナ・ティエンピ
ッがカラム・ラギッの筆名でバタヴィアの新聞DinihariやPembrita Betawiあるいはシン
ガポールのBintang Timorなどに幅広く作品を寄稿した。1895年3月18日付ビンタ
ンティモルにエンガノ島訪問記が掲載され、1901年3月15日付Primbom Soerabaja
にはかれのジャワ島周遊見聞録が掲載されている。かれは通商実業家であり、同時に詩人
で文筆家でもあった。

先に紹介したタン・フーローのパリ観光旅行記はそれより古い時代のものだ。華人ムラユ
文学の中に見られるルポルタージュ作品の研究はまだまだ手があまり付けられていない段
階であり、史上最初の作品が何で誰が書いたのかといったことはまだはっきりしたことが
解っていない。

タン・フーロー氏がバタヴィア東インド評議会の高官や他のオランダ人から見下されたり
差別されなかったとしても、それはヨーロッパ人側の個人的な人間観に負うものだったの
ではないだろうか。いくら相手が社会的に低階層の人間であると区分されていても、それ
まで何の経緯もなかったのにいきなり世間の中でその人間を差別し侮蔑することは本人の
品性に関わる問題と社会から見られてもおかしくあるまい。[ 続く ]