「印尼華人史と華人新聞(2)」(2024年01月30日)

オランダ東インドで非ヨーロッパ人は低級人種なのであり、それは制度として法規で定め
られた。1854年のRegeringsreglement(政府規則)はオランダ東インド社会の構成員
をEuropeanen(ヨーロッパ人)、Vreemde Oosterlingen(東洋人在留者)、Inlander(ネ
イティブ)の三カテゴリーに分けて法的身分の差を設けた。人種に基づくこの分類では、
華人・インド人・アラブ人・ムラユ人が東洋人在留者の区分に入れられた。そして各人種
は個々の文化を顕著に示す容姿で暮らすことを強制されて外見的に他の人種と社会生活の
中で区別され、官憲が個々の人種の政治的動きを監視した。華人男性は辮髪が強制された
という話もある。オランダ人の分割統治はそこまで徹底していた。

Vreemde Oosterlingenという言葉は17〜18世紀にVOCが使っていたVreemdelingen
(在留外国人)を変化させたものだそうだ。自分たちの支配下にいる(べき)よそ者とい
う概念、つまり該当する対象者、に関する変化が、VOC時代とコロニアル時代の間で起
こったような印象がそこから感じられる。


東洋人在留者に対しては、動きの束縛と監視の便を目的にしてその暮らしを更に締め付け
る制度が設けられた。そのひとつがwijkenstelselだ。大きい町では各人種が住む地域を
定め、その地域の外に住むことを禁止する制度が1866年に設けられた。Staatsblad 
van Nederlandsch Indieオランダ東インド官報1866年第57号には、各地域の行政官
が各人種の居住地区を指定すると謳われている。

この規則に違反して、指定された地区に引っ越さない東洋人在留者には入獄または25〜
100フルデンの罰金刑が、現居住地での居住期限と共に与えられた。居住期限というの
は強制措置が執行されるまでの猶予期間を意味している。

それよりもっと早く1816年にpassenstelselが開始された。これは居住地を離れる東
洋人在留者にその届け出を義務付けたものであり、居住している町から別の町へ行くとき
に訪問先と旅の目的、交通手段などを届け出て自分の居所を管轄しているwijkmeester(
地区役人)に通行許可証を発行してもらわなければならない。目的地が2ヵ所3カ所にな
れば必然的にパスも2枚3枚と必要になる。一枚の発行に0.5フルデンの費用がかかっ
た。発行手続きは、その日申請すると翌日にパスをもらえる。道中でパスを持たない東洋
人在留者が見つかれば罰金10フルデンが科された。

訪問先の町で用事が済めば、そのパスに相手の居所を管轄する地区役人のサインをもらい、
自分の町に戻ってからそのパスを自分の地区役人に提出して届け出た通りの旅を実行して
来たことを証明する。

ここで言っている地区役人とは各人種コミュニティの自治責任を東インド政庁に負う住民
管理機構の役職に就いている者を指していて、華人社会ではレッナンチナやカピタンチナ
が務め、アラブ人社会でもカピタンアラブが務めるのが普通だったようだ。このパッセン
ステルセルは1916年に廃止された。


1848年にはpolitierol制度が始まった。インドネシア語ではpolisirolと綴られるの
が普通だ。これは警察裁判制度と言えばよいのだろうか?東洋人在留者には公正な裁判を
受ける権利が狭められて、行政地区を管轄する警察の署長が届け出られた事件や係争問題
の判決を下した。証人を喚問して事実を明らかにするような場は設けられず、判官になっ
た署長の鶴の一声で判決が下されのが通常のあり方だった。

ただまあ、オランダ東インド社会で西洋市民社会に確立された公判制度を受ける権利を与
えられたのは基本的にヨーロッパ人だけであり、ネイティブにはネイティブの慣習法や宗
教法が適用される傾向が高かったのだから、東洋人在留者だけが法の前の平等という原理
をはく奪されていたわけでもないようにわたしには思われる。ただしネイティブの慣習法
や宗教法が西洋文明の原理に反する仕置きを定めている場合、オランダ人判事はそれを認
めず、文明的に妥当と考えられる判決を与えるのが常だった。[ 続く ]