「印尼華人史と華人新聞(3)」(2024年01月31日)

東洋人在留者の中で最大の人口を擁する華人がオランダ人支配者の設けた差別的制度にお
となしく甘んじていたわけではない。知識層・コミュニティ指導階層は自分たちが置かれ
ている状況への改善を求めて、コミュニティへの啓蒙運動を行なった。その代表的な動き
が1900年から始まったTiong Hoa Hwee Koan中華会館の運動であり、更に1907年
のSiang Hwee商会、そして1928年のChung Hwa Hui中華会の結成へと進んで行った。

19世紀終わりごろから、華人コミュニティはきわめて差別的なオランダ人の行政統治を
見限って、中国本土の行政を仰ぎ見る心情を強め始めた。それをナショナリズムと言うこ
ともできるだろう。そこには、非漢民族に統治されている中国本土という政治構造への拒
否感情が入り混じっていた。中国本土で起こっている、清朝打倒を叫ぶ革命勢力のうねり
にオランダ東インドの華人プラナカンたちの多くが正義感を触発されて、心に正義の炎を
燃やす若者がたくさん出現した。かれらが自分のアイデンティティを中華文化の中に見出
している若者たちだったことは言うまでもない。

だが華人プラナカンたちはまっしぐらに政治運動に突き進むことをしなかった。かれらの
関心は自分の祖先としての中国文化をより広く深く理解しようとするオリエンテーション
に伴われたのである。日常生活が中華文化とプリブミ文化の折衷の中で営まれているかれ
らのアイデンティティは、たとえ心情として中華人であるという自覚を持てても、文化感
覚の奥深さが純血華人と同一レベルにあるとは思えなかったはずだ。

その時期、中国の古典小説や歴史物語の書物がたくさんパサルムラユ語に翻訳されて世の
中に出た。また中国文化の教育と啓蒙を目的にした民間組織である中華会館もヌサンタラ
の各地に運動を広げて行った。

そんなオランダ東インドの華人コミュニティの中に勃興したナショナリズムに必要な情報
をもたらすものが新聞だった。華人にとっての新聞というものは元来、商業をなりわいに
するかれらに特別の意味を与えるものだった。かれらが行なう事業にとって宣伝広告媒体
は欠かせないものになった。第二次大戦までのオランダ東インドでは商業も農園産業もヨ
ーロッパ人資本家が牛耳っており、華人の大多数は中小資本の仲買や小売業を生計の柱に
していた。それぞれの分野におけるヨーロッパ人事業家との競合の場で、宣伝広告媒体は
かれらの事業運営における強力な武器になった。華人が興した新聞はたいていがその初期
において、宣伝広告と連載物語が内容の大半を占めていて、いわゆるニュース記事はごく
わずかなものでしかなかった。


華人コミュニティだから華語の新聞という短絡を起こしてはならない。いくら自分のアイ
デンティティを華人だとしていても、かれらは華語だけで日常生活を送っているのではな
かったのである。地元民と接触する場で使われるのは地元の言語であり、それは往々にし
てプリブミ社会の共通言語であるムラユ語になった。

かれらはたくさんの華語単語をムラユ語の文中に持ち込んで使ったものの、作文はムラユ
語で行う傾向が強まって行った。中国語は漢字がネックになって習得の難しい言葉になり、
アルファベットによる発音の表記方法さえ解れば簡単に文字にできるムラユ語の便利さが
読み書きの世界での勝敗を決めた。華人プラナカンが華語を話していても、その者が漢字
でその文を書くことができ、あるいはかれが話している華語の文が漢字で書かれていたと
きにそれを読めるのかどうか、それは一概にどうとも言えない状況へと進んで行ったので
ある。中華会館運動の中でマンダリンの言語教育が行われ、漢字を覚えさせることなども
同時に実施されたことの背景に、華人コミュニティにおけるそんな状況があった。[ 続く ]