「印尼華人史と華人新聞(4)」(2024年02月01日)

華人向け新聞は大きく分けて華語新聞とムラユ語新聞に分かれた。華人知識層はオランダ
語や英語の新聞も読んだが、それはきわめて小さい読者層でしかなかった。華語とムラユ
語の発行部数比較はムラユ語のほうが圧倒的に大きかった印象がある。プリブミ知識層も
華人の発行するムラユ語新聞を読んだが、華語新聞には手が出なかったはずだ。

そんな華人向け新聞が大衆読者の望む記事を掲載するようになるのは当然のことであり、
一方でもコミュニティに動きの方向性を与えることを望む華人知識人リーダー層が読者に
必要と思われる情報知識を解説して新聞に掲載した。

当時の新聞に書かれた論説や解説はオランダ東インドにおける政治情勢よりも中国本土で
起こっている政治状況の進展についての報道がはるかに優勢だったし、また華人の関心を
呼ぶ諸問題について中華文化を踏まえたアプローチから引き出される解説のほうが、政治
面における支持や判断よりも一般的になっていた。


1901年にスカブミで発刊されたLi Poは中国本土の革命派への支持を鮮明に打ち出し、
1903年発刊のKabar Perniagaanは中華会館寄りの姿勢を示して急進的なリーポーに対
立する穏健な新聞の立場を取った。バタヴィアを本拠にするこの新聞は1907年になっ
てPerniagaanに改名している。新聞事業としてはプルニアガアンの方が大きく成功したよ
うだ。

しかし保守的な穏健姿勢を固持するプルニアガアン紙に失望した青年たちが1910年に
バタヴィアでSin Po新報を発刊し、プルニアガアンとのイデオロギー対決が先鋭化した。
シンポーは中国本土の政治情勢に関する報道をメインに取り上げて、漢民族による革命を
鼓吹した。


それらの現象を概観するなら、20世紀初期の華人系新聞界は汎中華主義に彩られたもの
であり、その根幹を支えたのが中華会館の活動方針だったと言うことができるだろう。こ
の華人民間組織はジャワ島内をメインにして中華ナショナリズムを標榜し、実際的な政治
問題よりも華人コミュニティの繁栄とそのための教育に重点を置いた。

Li Po, Pewarta Soerabaia, Djawa Tengah, Sin Poなどの発刊にそんな中華会館の活動姿
勢が影響を与えたと見られている。それらの新聞は中国本土の政治状況に焦点を当てて報
道活動を行い、オランダ東インドの政治状況にはほとんど触れなかった。

1917年にスマランで開催された中華コミュニティコンファランスのあと、華人系新聞
界の地元政治状況に対するノンポリ姿勢はますます強まった。この会議では中国本土のナ
ショナリズム運動を強く支援するシンポーの姿勢がクローズアップされて社会の同調がそ
こに集まり、シンポーは影響力を持つひとつの政治勢力としての立場に立つことになった
のである。シンポーのシンパたちは団結してシンポーグループを形成した。

シンポーは華人プラナカンと華人新客に提案した。singkekとは中国本土で生まれ育ち、
中国の文化を深く身に着け、その価値観で暮らしているヌサンタラ在住華人であり、ヌサ
ンタラ生まれのプラナカンが折衷文化のライフスタイルや価値観で生きているのと大きく
違っている。シンケッはたいていがプラナカン娘(時には純血のプリブミ娘)を妻にした
から、その二世の子供は間違いなくプラナカンになった。

シンポーはその双方に提案したのだ。互いに協力し合って子供たちに中華文化の教育を与
え、プラナカンの子供たちが中国本土で行われている政治生活の分野に貢献をもたらすよ
うに育てよう。そしてオランダ東インドにおける政治活動には関りを持たないようにしよ
う。なぜなら、そんなことをすれば東インドの華人コミュニティは一体性を失い、コミュ
ニティの中が四分五裂するのが明らかだからだ。[ 続く ]