「印尼華人史と華人新聞(6)」(2024年02月05日)

1934年にスマランでムラユ語華語折衷新聞Mata Hariを発刊したクウィ・ヒンチャッ
のエピソードがある。クウィは1918年から23年までヨーロッパで暮らした。クウィ
はシンポーに中国の民族主義を支持する記事を書いていたが、その中にオランダ東インド
におけるコロニアル政策への批判を含めたことがある。かれが東インドに戻ろうとしたと
き、オランダ東インド政庁がかれの入国を禁止した。行く先のなくなったかれは中国に移
った。ところが中国での暮らしはプラナカンのかれにとって、いつまでたってもまったく
なじめないものだった。かれは中国本土の文化の中で自分は生きていけないと感じた。か
れはマンダリンが話せなかったのだ。

その時代の南洋華人にとって、マンダリンという言葉の位置付けは現代とまったく異なる
ものだった。華人コミュニティは同郷同文化の中に確立されたものになっていて、福建人
は福建語と福建文化、客家人は客家語と客家文化のなかで生活を営むのが普通であり、マ
ンダリンはそれらの個別コミュニティを結び合わせる共通語としての機能を持たされてい
た。異郷異文化人と接触する必要性を持たない華人にとって、マンダリンはたいして効用
の感じられない言葉だったはずだ。

その必要性を濃厚に持っていたのが商人層であり、異郷の品物を同郷社会で売るためには
異郷人との接触や異郷内にある情報の収集が不可欠で、必然的にかれらはマンダリンを学
びそれを駆使するようになった。だからクウィ・ヒンチャッが汎中華主義に背を向けてい
たわけでもなければ学ぶことに怠慢だったということでもない。かれは単にその時代の常
識の流れの中で泳いでいたというだけのことなのだ。

かれはまたプラナカンとして培われた自分の生活習慣を中国のものに適合させることもし
ようとしなかった。ヨーロッパではそれで十分に生活できていたのだから。最終的にかれ
は悟った。自分が生きるべき土地はオランダ東インドしかないということを。

同じプラナカン仲間の助力を得て、かれはオランダ東インドに戻ることができた。そして
1934年に仲間のウイ・ティオンハムと共に新聞マタハリの発行を開始したのである。
ウイ・ティオンハムは、砂糖王になってスマランで巨大な財閥を築いた人物だ。


インドネシアの華人プラナカンが崇拝した中国本土も、かれらがプラナカン生活の中で身
に着けたライフスタイルを受け入れてくれるものではなかった。独立インドネシア共和国
のスカルノレジームのときに、華人の小売り商売が都市部だけに限定され、村落部に店を
開いて小売り商売を営むことが禁止された。1959年政令第10号がそれだ。

村落部に住んで自宅に店を設け、何かを作ったり仕入れたりして自分の店で販売すること
を生計の柱にしていた華人たちは、生活の基盤を失った。同じ商売を続けていくのであれ
ば、町に引っ越さなければならない。町中ではきっと過当競争が起こるだろう。村落部に
住み続けるのであれば、事業のスタイルを変えるか、それとも何か別の仕事をしなければ
ならない。餅菓子の店を開いて作り売りしていた華人がこの政令のために店を閉めた。し
かし餅菓子作りは継続し、村の中の菓子屋やワルンで販売してもらうようになったという
話もある。利益が半減するのを避けることはできなかった。

この政治方針によって華人コミュニティの中に激しい反政府感情が渦を巻き、インドネシ
アを去って中国に移住する動きが多数の華人の間に引き起こされた。エクソダスの波は中
小の小売商人層だけでなく、医者・技術者・会計士などの専門知識層にまで及んだ。スカ
ルノの政策に対する華人コミュニティからの義憤あるいは公憤が引き起こした政治行動だ
ったと言えるだろう。

そしてかれらの崇拝する中国本土に移ったプラナカン層が体験した悲惨な生活が公然の秘
密として語られるようになった。憧れの父祖の地はプラナカンのライフスタイルを受け入
れるだけの懐の深さを持っていなかった。[ 続く ]