「印尼華人史と華人新聞(7)」(2024年02月06日)

華人系新聞界はその誕生時からローカル政治の世界との間に距離を置いた。自分たちのコ
ミュニティが置かれている状況を改善するためには政治の世界と関りを持つことが不可欠
であると知りつつも、その方向に突進すればコミュニティを四分五裂させる大きいリスク
に直面することになる。その怖れがかれらを政治の世界から遠ざけ、政治をアンタッチャ
ブルなものにした。一方、プリブミ新聞界はオランダ人の支配するヌサンタラを支配者の
手から奪取するための政治闘争の中に敢然と踏み込み、民族主義闘争の一部と化したので
ある。

華人系新聞界は内向きで排他的な風土を築き上げ、華人にとっての文化的な諸問題に最大
の関心を向けた。ヌサンタラに形成された華人プラナカン社会は汎中華世界の一部分なの
であって、この社会は自分の属す世界の中の妥当なポジションに位置付けられなければな
らないのだ。全体を忘れてしまって自分だけが存在するという意識を持つなら、自分の偉
大さを卑しめることになる。

その姿勢は華人プラナカン社会の中に生まれたひとつの思想を示すものだ。社会がさまざ
まな人間と考え方で構成されているとはいえ、それぞれの勢力は時と所に従って膨らんだ
り縮んだりするのが世のならいである。あの時代のヌサンタラ華人社会の指導層が選択し
たコミュニティのあり方がそれであり、コミュニティ社会のマジョリティもその選択を良
しとした。


インドネシアの華人は時間やエネルギーを、ましてや生命を政治運動に捧げることを好ま
ないという指摘が華人界を賑わせた時期がある。わが身を危険にさらす急進的過激的な政
治運動などまっぴらだと言うのだろう。オルバ期に反体制運動に加わって投獄された華人
にコミュニティが向けた感情は、同情よりも愚行という見解のほうが強かったそうだ。

オン・ホッカムはインドネシア華人の性格について、個人主義的で中立的であると評して
いる。実業家になるという人生の道程がかれらを個人にし、その帰結として個人主義者に
した。そのためにかれらの政治・文化・社会生活への関わり方も個人主義的になった。リ
ム・クンヒアン、シアウ・ギョッチャン、ユヌス・ヤッヤ、ユスフ・ワナンディ、スー・
ホッギー、アリフ・ブディマンなど政治世界に足を置いているインドネシア華人の名前を
引いて、オン・ホッカムはその傾向を説明している。


インドネシアの華人プラナカンコミュニティがひとつの集団としてインドネシアの政治世
界に積極的な動きを示すことを、プリブミの反チナ感情が阻んでいるように見える。19
65〜66年と1998年に何が起こったかを華人プラナカンは決して忘れないだろう。

オランダコロニアル時代の政治体制がその種の大規模事件の発生を抑止していたことは皮
肉な現象かもしれない。コロニアル時代に、華人コミュニティは一体性を重視し、集団の
四分五裂を恐れて統治支配者への服従姿勢をあらわに示すことに神経を使っていればそれ
でよかったのだから。

そしてインドネシアの政治体制が変わったあと、集団の四分五裂よりもっとすさまじい恐
怖をかれらは体験したのである。レフォルマシ時代に入ったにもかかわらず、インドネシ
アの華人コミュニティは遠い過去から続けられてきたノンポリ体質を相変わらず維持し続
けている。その体質は華人系新聞界に反映されており、華人系新聞を観察していれば華人
コミュニティの体質を概略でつかめることは間違いないようだ。

中華会館運動は独立共和国になったインドネシアでも継続された。スカルノレジームは華
人コミュニティの教育と文化活動に反対しなかった。華人プラナカンへの華語教育も盛ん
に行われたし、華人系の私立大学Universitas Res Publicaも設けられた。独立以前から
華人系の私立病院もあちこちに作られている。[ 続く ]