「ヌサンタラのコーヒー(71)」(2024年02月05日)

インドネシアで生産されるコーヒーの6割がランプン産のものであり、インドネシアから
のコーヒー総輸出量の60〜65%がランプン産で占められているとかつて語られていた
ほど、大産地の名声をわがものにしていたのがランプン州だ。ただ、南スマトラ州ですで
に触れられているように、ランプンから輸出されているコーヒーの全量がランプン産であ
るかどうかは単純に判断できないように思われる。

スマトラ島南部地方の地元は別にして、ランプンコーヒーという名前は良質のロブスタコ
ーヒーの代名詞としてジャワ島からヌサンタラの一帯、そしてさらには海外にまで行き渡
っていた。結果的にランプン州から積み出される南スマトラやブンクル産のコーヒーにも
ランプンの名前が冠せられる習慣が定着してしまったように見える。


ランプンはかつて世界最大の黒コショウ生産地だった。Lampung Black Pepperの名は世界
中のスパイス業界者に知れ渡っていた。ランプン産コショウの名が商業界に浸透し始めた
のはバンテン王国の勃興がきっかけだったかもしれない。

1525年にドゥマッのスルタン トレンゴノとチルボンのスナン グヌンジャテイが連合
軍をスンダ王国最大の海港バンテンを征服するために派遣して目的を達成し、スナン グ
ヌンジャテイの息子マウラナ・ハサヌディンの統治下にバンテンがチルボンの属領になっ
た。その同じ年にランプン域内での勢力争いからプグンの女王がスナン グヌンジャテイ
に援軍を依頼したため、チルボン軍がランプンの地に遠征している。スナン グヌンジャ
テイはイスラム広宣をランプンの広大な地に実現させようとして、ことさらランプン支配
に意欲を燃やした。

バンテン統治者マウラナ・ハサヌディンも、父の偉業に貢献し同時にバンテンを一大国際
商港に築き上げるためにランプンへの進出に熱意を燃やした。バンテンで取引されるコシ
ョウは後背地であるジャワ島西部地方産ばかりか、ランプン産のコショウまでもが大量に
バンテンの商港に届けられた。ヨーロッパやアジアの商船がコショウを求めてバンテンに
やってきた時代がバンテンの黄金期になったのである。だが19世紀のオランダ東インド
政庁はランプンのコショウの価値をコーヒーよりも低く見た。コショウも重要だがコーヒ
ーはもっと重要だというオランダ人の姿勢が地元民のコショウに対する価値観を変化させ
て、最終的にコショウの衰微を招くことになったというコメントが見られる。


ランプンでコーヒー栽培が開始されたのは1841年であり、そのきっかけはファン・デ
ン・ボシュの栽培制度の一環としてだったようだ。オランダ東インド政庁はランプンでの
コーヒー開発を大がかりに行った結果、その当時で既に東インド最大のコーヒー生産地に
なった。農業技術専門家や栽培経験者を動員して、ランプンの広大な土地をコーヒーや水
稲などで埋め尽くそうと計画したのだ。栽培経験者として多くのジャワ人がその時期ラン
プンに移住させられたと言われている。

その時代のオランダ東インドはまだアラビカ種コーヒーの時代だったから、ランプンにも
最初はアラビカ種が植えられた。そしてサビ病の蔓延が起こり、その対策にまずリベリカ
種が使われた。ところがリベリカ種も決してサビ病に強くないことが明らかになり、最後
の切り札としてロブスタ種が導入された。だからスマトラ島南部地方ではあちこちにリベ
リカ種の生き残りが存在している。

ランプン州のコーヒー産地は北ランプン県Kotabumiから北部西部に向けて州境に至るまで
の広範な地域、タンガムス県Talang Padangから西ランプン県Way Tenongまでの高原部一
帯、Teluk Betung沿いのKalianda, Batu SerampuhからRajabasaに至る地方がメインをな
している。大収穫期は6月から7月初を中心にして5〜9月だそうだ。[ 続く ]