「印尼華人史と華人新聞(8)」(2024年02月07日)

ところがG30S政変でスカルノレジームが倒され、クーデターを裏で操ったのが中華人
民共和国とその手先となった華人プラナカンコミュニティであるという政治宣伝によって、
華人プラナカン社会はプリブミに敵対する勢力であると位置付けられた。

スハルトレジームはその政治宣伝を実践するために中華色をヌサンタラの地から消滅させ
ることに努めた。中華会館とその教育および文化活動はすべて禁止された。中国の歌や音
楽その他の芸能、中国の宗教や祭祀、中国映画、中国の書物、中国の言葉、中国の文字つ
まり漢字などの一切が国民の社会生活から排除された。

華人系学校の廃止、大学や病院からも中華色が消され、社会生活の中から中国をイメージ
させるあらゆるものが追放されて、華人にはプリブミ文化への同化が強制された。レスプ
ブリカ大学は現在のトリサクティ大学に変身し、コロニアル時代にバタヴィアのマンガド
ゥアで開業したYang Seng Ie病院は現在のHusada病院になっている。


社会生活の中に漢字が出現することが禁止されたのだから、華語の新聞や雑誌が発禁の憂
き目にあったのは当然だ。スカルノ時代にはジャカルタにObor, Garuda, Bintangなどの
華語新聞があったが、オルバレジームはそれらをすべて抹殺した。ところが華語しか解ら
ない華人がたくさんいるという話になって、一年後にオルバ政府はHarian Indonesiaとい
う名前の華語新聞を出した。それがインドネシア全国で唯一の華語新聞になった。この新
聞は必ず第一面にスハルト大統領の写真と記事が掲載されたそうだ。発行部数も8万部と
いう半端でない数字だった。ところがオルバレジーム崩壊時には発行部数が1万7千に激
減していた。32年間のオルバレジームが華人コミュニティから華語を消去することに成
功した例を示す端的なものがそれだとコメントしている声もある。

そのように華人コミュニティから中華文化を消滅させたにもかかわらず、そんなことだけ
で「今日からわれわれは同胞だ」ということにはならなかった。華人プラナカン社会と中
国本土の精神的結びつきの強さは華人社会自身がオランダ時代から示していたことだ。独
立闘争期にプリブミがNICA軍と戦って血を流しているとき、親オランダ行動を執って
プリブミゲリラ部隊の動向をNICA軍に通報していた華人も少なからずいた。たとえか
れらがインドネシア国民としてインドネシアナショナリズムに従うと言ったところで、そ
う簡単に信用するわけにはいかない。

親米・反東側ブロックに加わったスハルト政権には、華人コミュニティを敵視する理由が
山ほどあった。インドネシアにある華人コミュニティは中華人民共和国がたくらんでいる
インドネシア支配の尖兵にいつでもなりうる潜在的脅威なのだ。インドネシアの腹の中に
入った侵略者なのである。

華人の多くはその敵視政策を弱めようとして、インドネシア文化への同化を選択した。社
会生活においてはジャワやスンダなど地元種族のローカル名やイスラムあるいはクリスチ
ャンの名前を使うようになり、コミュニティ内での華人名と二本立てで自分の名前を使い
分けた。

1967年のトーマスカップに出場するインドネシア代表の中の華人系選手たちはインド
ネシアナショナリズムに貢献するために、自分の名をインドネシア名に変えた。ウォン・
ペッシェンはダルマディ、チョア・チョンボアンはアグス・スサント、チア・キアンシエ
ンはインドラッノ、ルディ・ニオはルディ・ハルトノ・クルニアワン、チョン・キンニエ
ンはミンタルジョになったのである。

華人系プラナカンはできるだけ自分が華人系であることを隠そうとした。目が細いことが
昔から華人系の看板であったために、自分の目が細いことを苦にした東ジャワの一女性が
目を大きくする整形手術を受けたところ、医者の不手際で目が開かなくなり、自殺を図っ
た事件も起こっている。[ 続く ]