「印尼華人史と華人新聞(終)」(2024年02月12日)

ムラユ語新聞だった新報については上で少し触れた。1910年発刊のこの新聞は満州人
が興した清朝の支配下に置かれている中国本土の独立を支援し、ヌサンタラの華人コミュ
ニティに汎中華主義意識を持たせて漢民族の一体化を促進することをモットーにした。

しかしプリブミ層の反オランダ闘争にまったく無関心だったわけでもなく、異民族支配か
ら脱するという共通項を持つインドネシアの独立運動にも同情的であり、1928年の青
年の誓いで新国家名をインドネシアにするという決議が採択されると、新報は率先してオ
ランダ東インドという名称をインドネシアに替えて使い始めた。だがプリブミ新聞界と声
を揃えてオランダ東インド政庁への批判を謳うことはしなかった。

シンポーは日本軍政期に新聞発行を止めた。日本軍政は日本国内で行われていた言論統制
を占領地でも行ったから、ジャワ軍政監部の検閲を受けて日本軍の御用記事を載せるだけ
の新聞になろうとするジャーナリズムではなかったというのがその背景だろう。


日本軍はインドネシアの華人プラナカンコミュニティに対してアンビバレンツな立場に立
たざるを得なかった。ひとつは西洋連合国への敵対原理にもとづいてオランダ文化をイン
ドネシアから消滅させる方針を採った点が挙げられる。そのために汎アジア文化を優位に
置き、その枠内では中国文化を認める姿勢を示さざるを得なかった。

オランダ東インド政庁が設けた教育制度を廃止して日本式学校教育をインドネシアに持ち
込んだ際に、オランダ語による西洋型の教育を受けていた華人子弟に対して軍政監部は中
華教育をかれらに与えるよう華人コミュニティに命じている。華人は華語の読み書きがで
きるのが自然な形であるので、華人コミュニティはその方向で子弟を教育しなければなら
ないという指導方針が謳われた。

日本軍は言うまでもなく、インドネシアの華人プラナカン社会が日本の戦争遂行に協力す
ることを望んだ。少なくとも、反日本という抵抗姿勢が現実行動に移されないことが最低
条件だったとも言えるだろう。なぜならその時期、日本は中国と日中戦争の真っただ中に
あったのだから。そのために華人プラナカン社会に対してはプリブミ社会よりはるかに強
い警戒姿勢が執られた。


さて、新報の報道活動は1946年に再開された。その後1962年にこの新聞はWarta 
Bhaktiに名前を変えている。G30S政変の直後に、長い歴史をたどったこの新聞はスハ
ルト政府に息の根を止められた。

この新報と対立してプリブミ新聞界に同調する反オランダ姿勢を打ち出したのがKeng Po
競報だった。もともと新報にいたハウ・テッコンと編集長チュー・ボウサンの間で起こっ
た意見の対立がハウを新報から去らせ、1923年に新しい新聞を誕生させることになっ
た。この競報と新報がライヴァルとして日本軍政が始まる直前まで激しいデッドヒートを
展開したのである。

競報は華人コミュニティに対して、自分たちが置かれている状況を改善するためには統治
支配者が加えているさまざまな束縛の鎖を断ち切ることこそ最重要なことがらであるとい
う基本見解を訴え、反オランダ姿勢を明確に打ち出すことを呼びかけた。

競報も日本軍政期を乗り越えて新生インドネシア共和国の有力紙として活動を続けていた
ものの、1957年にスカルノ大統領がインドネシア社会党に解散を命じたとき、競報が
社会党と密接なつながりを持っているという理由で廃刊を命じられた。廃刊時にKeng Po
はPos Indonesiaという名前に代わっていたため、廃刊措置を与えられたのはケンポ―で
なくてポスインドネシアだった。[ 完 ]