「海を忘れた海洋民族(3)」(2024年02月15日)

海洋文化の人間は大陸人間よりはるかに強いビジョンと感受性を空間に対して持つはずで
あり、遠い昔から海洋民族だったインドネシア人は民族本来の資質に回帰しなければなら
ない、と文化人ラドゥハル・パンチャ・ダハナ氏はある討論会で述べた。

ヌサンタラという多種族多文化が寄り集まったインドネシアの国土は三分の二が海に覆わ
れている。多様性の並立的一体化を実現させるために、国民は昔の先祖がそうであったよ
うに海洋民族精神を国家建設の中に注ぎ込まなければならないのだとかれは主張した。

海洋と海岸の文化が育てた人間は町と社会の作り方、政治経済の動かし方が大陸人間と異
なっていて当然だ。ヌサンタラの船乗りたちは広大な海を越えて到達した陸地に自分たち
と異なる人間が異なる文化の中で暮らしていることを知った。異なる言語を使い、異なる
生活様式の中で暮らし、自分たちにとってはありきたりの物産物資を珍しい物として欲し
がるかれらと通商できることを知った。

ヌサンタラ各地の諸海港にはもっと広い世界から多種多様な人間がやってきてハイブリッ
ドな社会が築かれた。単一文化には起こりにくい開明的な視界が開かれ、人間は異文化と
異人に対する許容度を高め、異なるものを受け入れて共存し、その新たな形態に自己を適
応させる能力を養った。それが文明化ということの本質なのだ。

現代インドネシア人は過去の歴史の中で長い間培われてきた海洋民族の資質を抹消されて
内陸型人間に作り替えられ、数百年という期間を内陸文化の中で過ごすことを余儀なくさ
れた。それはこの国家と国民が置かれている地政学的状況にそぐわないものであり、内陸
文化の価値観で国民生活が続けられたなら国家国民の発展に絶えざる障害が湧きおこるだ
ろう。そうラドゥハルは主張したのである。


インドネシア人が海洋民族であったことは、海に浮かぶヌサンタラの住民たちの日常生活
がどれほど密接に海とつながっていたかということに明瞭に表れている。海に住む海人が
おり、海の幸を漁する漁民がいたるところにおり、海に出る船を操る船乗りもたくさんい
た。かれらにとって海は単なる自然の一形態以上のものになり、海を畏敬し、自分たちの
生きる原理の中に海を引き込んで哲学に昇華させた。

大きく力強い海に対峙する人間はその力を拮抗させるために、集団を組んでその力の和を
背景に海と対面した。何十人も乗った船で大海を横断するために、船乗りは個々の役割を
受け持ちながら、自分たちの動かしている一隻の船が確実に目的地に到達するよう心をひ
とつにして協力し合った。それが海洋文化を育んだのである。

遠い昔からヌサンタラの海にはOrang LautあるいはSuku Lautと呼ばれる海人がいた。か
れらは陸地に近い沿岸に高床式水上家屋を建て、あるいは小舟を浮かべて生活した。出か
けるときは船を駆って海に出た。かれらが生きる場は海だったのだ。かれらはしばしば集
団で居所を移動させたから、海のジプシーとも呼ばれた。

生まれた子供は波の間で成長した。そしておとなになれば漁撈し、通商し、そして海賊も
した。スクラウッの大センターはスマトラ島とカリマンタン島の間に横たわる多島海だ。
今でもその海域は海上交通のブラックエリアと見なされていて、国際的に海賊のリスクが
高い海として通過船舶に厳重な警戒を強いている。


スクラウッの栄光の時代は、スリウィジャヤ王国、そしてマラカやジョホールなどの海洋
王国の最盛期に光り輝いた。スリウィジャヤ王国の最盛期は西暦7世紀ごろからの数百年
間だ。それらの海洋王国は大規模な商港を設けて交易を望む外国船の来航を誘い、取引に
課税し、船の港湾使用から収入を得、更には商港に入らず目の前を通過する商船からも領
海の通行料を徴収した。王宮の金庫では財産がうなり声をあげていた。

商港に入らずに通過して行こうとする商船からどうやって通行料を徴収したのか?商船は
スクラウッの船隊に進行を阻まれたのだ。何もしないのに通行料を取られるくらいなら、
港に入って交易して行こうかと気を変える船長もいたはずだ。

それは海賊行為によく似ているが、自分のために他の船を襲うのでなく、スリウィジャヤ
やマラカの商港を栄えさせるために船を襲うのである。それをするよう求める王国の要請
に応じて、報酬をもらって海上警察や海上兵士の役を勤めていたのがスクラウッたちだっ
たと言えるだろう。これは明らかに両者にメリットをもたらすきわめてポジティブな協力
形態だった。[ 続く ]