「海を忘れた海洋民族(5)」(2024年02月19日)

フローレス島の東に連なるLembata島の最南部にあってサウォ海に面しているLamarela村
の部落の一つLameraの住民は絶対にゴミを海に捨てない。かれらを生かしている母なる海
を汚すことがどんな結果をもたらすかを理解したかれらの先祖は、歌・詩・物語・呪文・
哲学・慣習の掟などの中に母なる海の尊厳を盛り込み、それに従った生活様式を文化とし
て培った。聖なる母を穢すことは自分を汚すことになる。人口4千人のラメラ部落でひと
びとは、何世紀にも渡って続けられてきたライフスタイルをいまだに維持している。

ラマレラの住民は南スラウェシ州のLuwuから移住したひとびとだそうだ。マジャパヒッ王
国の宰相ガジャマダがヌサンタラ東部への平定作戦を行なったとき、ガジャマダに服従し
た諸国の軍隊がマジャパヒッ軍に随行した。

スラウェシ島の諸国を服属させるとガジャマダ軍はハルマヘラに向かい、さらにイリアン
島に達した。そのあと反転してセラム〜ゴロム〜アンボン〜ティモールを通り、ルンバタ
島に上陸した。そのときルウの兵隊たちはガジャマダ軍と別れて島の南端に住み着いたと
言われている。この説に従うなら、ラマレラ村は1357年ごろにできたことになる。
しかしルンバタ島ラマレラの捕鯨漁はこの村ができた1千5百年前に既に始まっていたと
いう説もあって、そうだとすれば、ルウからやってきた移住者は先住民社会の中に溶け込
んだことになる。


ラマレラは捕鯨の村として世界に名の知られた漁村だ。地元民は捕鯨漁のことをBaleoと
呼んでいる。ポルトガル人は1643年にラマレラのバレオを世界ではじめて文書に書き
残した。南氷洋が冷たくなるころ、鯨は温かい海を求めてその一部がサウォ海を通過する。

毎年5月から11月がその期間だ。ルンバタ島では5月1日に捕鯨漁期の開始を表する儀
式が行われる。その儀式の日までに、地元民は住民問題や土地に関わる問題を終わらせて
いなければならない。

儀式はカトリック教のミサの形式で行われる。東ヌサトゥンガラ州のたいていの地方はポ
ルトガル人が布教したカトリック教が有力な宗教になっているのだ。鯨を獲るレワのシー
ズンをつつがなく終えることができるよう、住民は神に祈りを捧げるのである。捕鯨漁は
5月2日から9月30日まで行われる。


ラマレラの漁師にとって鯨は他の海産魚類とまったく意味合いの異なる存在だ。掟の中に
捕獲してはならない種、そして捕獲してならない鯨の状態が定められている。シロナガス
クジラを殺してはならず、また胎児を持つ者・若い者・つがい期にある者は種類が何であ
れ、捕獲してはいけない。

シロナガスクジラの禁忌は種の保存という理由でなく、住民の間で語り継がれている「住
民がかれらに救われた」という理由になっている。中にはルンバタ島がかれらに救われた
と語るひともいる。たとえ意図しなくても、誤ってそれらの禁忌を破ってしまったなら村
が災厄に襲われると住民たちは信じており、漁師にとってはそれがたいへん重い責任を感
じさせる圧力として働いている。

ラマレラの捕鯨漁はパレダンと呼ばれる大型の木造船に7〜14人が乗って沖へ出る。ラ
マファと呼ばれる銛打ちは船の舳先に立って銛の付いた長さ4メートルの棒を構え、禁忌
に触れない鯨を探し出して空中に跳び上がり、長さ30センチほどの鉄製の銛を鯨の身体
の中深くまで打ち込んでから自分は海中に落ちる。

銛の付いた棒には長い綱が付けられており、逃れようとする鯨を船に引き寄せながら他の
乗組員がそれぞれ別の銛をその鯨に打ち込んで絡めとり、暴れる鯨が死ぬのを待つ。そう
してから鯨は船に引き寄せられ、浜辺に運ばれて行くのである。

漁果が上がると、浜辺で鯨は解体され、肉がすべての住民に分配される。そして残った肉
が市に持ち込まれて他の食糧と交換される。ラマレラの市場は週一回開かれ、商品はバー
ター方式で取引されている。


ヨーロッパ文明が海棲哺乳動物の保護と保存を唱えるようになってから、ラマレラの捕鯨
漁も一時期白人社会の目の敵にされた。インドネシア政府も国際社会の潮流から非難を浴
びせかけられたなら、それに同調して動かざるをえない。行政ヒエラルキーに従ってルン
バタ県庁もラマレラ村で何世紀にもわたって行われてきた慣習を禁止した。

しかしラマレラの捕鯨漁は百パーセント地元住民の自家消費を目的にした生活行為なので
あり、商業目的の活動ではないのだ。一年に捕獲される鯨は20頭に満たないそうだ。忍
耐強い説得とアピールが行われた結果、動物保護勢力はラマレラ村の捕鯨漁を撲滅ターゲ
ットから外した。[ 続く ]