「海を忘れた海洋民族(7)」(2024年02月21日)

ヌサンタラの海上交通網が活発化し始めたのは9世紀だった。9世紀に中国・アラブ・イ
ンドなどから交易船がヌサンタラにたくさん渡来するようになり、ヌサンタラ各地の物産
物資が外国商船の寄港する港に集められるようになって、ローカルの島嶼間海運が発展し
た。その状況は17世紀まで続いた。

航海術に欠かせないものが天文学とコンパスだ。ヌサンタラのローカル海運は船から島々
の地形と夜空を観察することで航路を見出した。更にアラブやペルシャの船が来航するよ
うになって、コンパスがインドネシア人船乗りの手に入るようになった。

VOC初代の海軍提督になったスティ―ヴン・ファン デル ハーヘンが大量のコンパスを
東インドに持って来たものの、それを買うヌサンタラの船乗りはほとんどおらず、提督は
仕方なくそれをオランダに持ち帰ったという話もある。

インド洋を横断してマダガスカルに渡ったヌサンタラの船乗りは空の星とモンスーンを読
み切ってその偉業を成し遂げたと考えられている。ヨーロッパ人の遠洋航海が夢のまた夢
だった時代にインドネシア人は4千海里の大航海をたいして大きくないアウトリガー船で
成し遂げていたのだ。


西暦770年から825年までの長い年月をかけて建設されたチャンディボロブドゥルの
壁画の中に10枚ほど船の絵を見ることができる。丸木舟やアウトリガー付きの大きい船、
アウトリガーなしの大きい船という3種類に大別できる船の姿はさまざまな構造をしてお
り、そんな形の船がジャワ島にあったことは間違いないだろう。

アウトリガー付きの帆船だけで5種類の構造が見られ、バリエーションに富んでいたこと
が推測される。

それらの船に関して、すべてインドで作られ、インド人が操船してジャワにやってきた船
だという説もあれば、ボロブドゥルを建設した古代マタラム王国のサイレンドラ王朝の作
ったジャワオリジナルの船だという説もあり、一方その当時ヌサンタラの海洋覇権を握っ
ていたスマトラのスリウィジャヤの船という見解もあって錯綜している。しかしさすがに
ジャワ文化の船だという声がもっとも強い。

中にはマジャパヒッの船だという声も聞かれるのだが、そうであれば14世紀後半のガジ
ャマダの大遠征のころにそのレリーフの絵が取り替えられたことにならないだろうか?絶
対にありえないと言う気はないものの、その発想の奇妙さにわたしは付いていけない。
マジャパヒッの船はアウトリガーを使わないジュン帆船だったそうで、専門家はこの意見
をナンセンスとして扱っているようだ。


ともかく、それらの帆船がジャワ島産であったのなら、中部ジャワ北海岸部で建造されて
いたことが推測される。それはいったいどこだったのだろうか?

16世紀ごろLasemの名は造船の町として東南アジア一円に名を轟かせていた。マラカを
ポルトガルのコロニーに変えたアルブケルケが1512年に本国ポルトガルに戻るとき、
ラスムの船大工60人を自分の船に乗せて連れ帰ったそうだ。ヌサンタラ東部地方では、
15世紀以来スラウェシ島のBulukumbaが、そしてマルク地方ではもっと古い時代からKei
島が造船センターとして名前を知られていた。

さまざまな種族文化の混じり合ったヌサンタラの海をさまざまな種族が作ったさまざまな
形態の船が入り混じって走った。種族別の特徴を持つそれらの船がその種族言語で名付け
られたのも当然のことだ。そして面白いことが起こった。

ほとんどの船種の名称はその種族文化における固有名詞と規定されてインドネシア語一般
語彙を収録したKBBIの中に採録されていないにもかかわらず、中には採録されたもの
もあるのだ。船を表すインドネシア語一般語彙としてKBBIの中に、kapal, perahu, 
sampan, lancang, pencalang, jungなどを見出すことができる。[ 続く ]