「海を忘れた海洋民族(12)」(2024年02月28日) ヒンドゥ=ブッダ教を奉じるマジャパヒッ王国(1293〜1478年)は最初農業国家 だったが、ガジャマダが宰相になってから大海洋王国に発展した。ヌサンタラ統一の理想 を掲げたガジャマダはパラパの誓いを表明し、ンプ ナラを海軍担当大臣に任じて王国の 海上パワーを育成させた。その強力な海軍力はマジャパヒッの王国旗をヌサンタラの外に までなびかせる結果をもたらした。 ヌサンタラはひとつになり、その外縁にあるシャム・アユタヤ・ラゴール・チャンパ・ア ンナン・インド・フィリピン・中国南部との結びつきがあちこちで起こった。マジャパヒ ッの宮廷文司ンプ プラパンチャの著作ヌガラクルタガマの中に、ジャワ人水夫の操る王 国の船が中国やインドまで航海していたことが語られている。琉球に赴いた船があったと 考えるのは自然なあり方だろう。 インドネシア人がスパイス交易の主役を担ったのが14世紀だった。ジャワ島北東海岸部 の港がスパイス交易の重要な拠点にのし上がって来たころ、マルクで産するスパイス類が インドネシア人の船でそこに運ばれてから、それを世界に散らばせる役割を中国・アラブ ・ジャワの船が受け持った。 西洋人がやってくるまでのヌサンタラ海域の海上通商はジャワ人船乗りが活躍する舞台だ ったのである。マルクのスパイスをヌサンタラの諸港に運び、あるいは更にマラカにまで 送り届ける通商ルートはそのころ既に出来上がっており、その航路をたくさんのジャワ商 船が往来していた。その時期、東南アジア域内の最大貿易港はマラカだった。クローブは マラカを富ませる重要な商品のひとつになっていた。 1511年にポルトガルに滅ぼされるまで、マラカにはジャワ人居住者の自治組織があり、 カピタンジャワが集団を統率した。いかにたくさんのジャワ人がマルクのスパイスをマラ カに運び込んでいたかがそこから推測できる。ヨーロッパ人は東南アジアで行われていた 人種別居住地における自治制度を自分のコロニーに摂りこんで真似た。VOCは華人・イ ンド人・アラブ人・ムラユ人などの居住者集団に対して自分のコロニーでカピタン制度を 行なっている。 ハサヌディン大学歴史学者は14〜15世紀に形成された通商ゾーンを次のようにまとめ ている。 [1] ベンガル湾通商網 南インドのコロマンデル海岸〜スリランカ〜ビルマ〜スマトラ島西部・北部 [2] マラカ海峡通商網 マラカを中心に置いたマラヤ半島西岸とスマトラ島東岸 [3] 南シナ海通商網 マラヤ半島東岸〜タイ〜ベトナム南部 [4] スル海通商網 ルソン島西岸・ミンドロ・セブ・ミンダナオ〜カリマンタン島北部 [5] ジャワ海通商網 ヌサトゥンガラ諸島〜マルク諸島〜カリマンタン島西部〜ジャワ島〜スマトラ島南部 この[5]はマジャパヒッの覇権の下で営まれていた。 そこにマカッサルが出て来ないのは、16世紀が商港マカッサルの発展した時代だからだ。 マカッサルの発展は地理的位置が上の5通商網の中心に当たっていたことが大きい要因と して作用した結果だった。[ 続く ]