「ヌサンタラのコーヒー(85)」(2024年02月27日)

バリ島におけるコーヒー栽培はファン・デン・ボシュの栽培制度によって開始されたよう
だ。KFファン・デルデン・ラルネが1885年に書いた「アメリカ・アジア・アフリカ
のコーヒー栽培に関する報告書」の中に、1825年にバリとパレンバンで作られたアラ
ビカ種のコーヒーが10,377ピクルジャワから輸出されたという記載が見られる。さらにま
た、1853年にバリ・スマトラ・セレベス産のコーヒーがジャワ島から69,974ピクル、
マカッサルから6,000ピクル輸出されたというデータも見つかる。

1850年代半ばにバリとロンボッを訪れたアルフレッド・ラッセル・ウォレスは、バリ
とロンボッの主要輸出品はコメとコーヒーだと著書マレーアーキペラゴの中に書き遺して
いる。ファン・デン・ボシュの企画がバリとロンボッでも実行されたのは間違いないよう
に思われる。


しかしバリ島のどこでコーヒーの栽培が行われたのかについての情報がなかなか得られな
い。現在のバリ島のコーヒー生産センターとしては次のような地名が挙げられている。
バンリ県 Kintamani
ブレレン県 Sukasada
カランガスム県 Rendang, Kubu
タバナン県 Baturiti, Pupuan
バドゥン県 Petang
コーヒーの地名ブランド(Geographical Indication)としてインドネシア政府に登録され
ているのはKopi arabika Bali KintamaniとKopi robusta Pupuanの二件になっている。

バリコーヒーの代名詞になっているキンタマニのコーヒー栽培史には、19世紀末にサビ
病でコーヒー栽培が大打撃を蒙ったあと、オランダ東インド政庁がキンタマニ山岳部の1.
3万Haの土地をコーヒー栽培だけに限定して利用する方針を立てたと書かれている。

他のいくつかのイ_ア語情報では、キンタマニの農民がロンボッからコーヒーを持ち帰っ
て栽培したのが事始めだという内容が記載されていて、それがサビ病後のコーヒー栽培リ
バイバルの動きの中で起こったことであれば、現在のキンタマニコーヒーの栄誉はその農
民の貢献に帰せられることになるだろう。

しかし1942年以後の日本軍政期にコーヒー栽培は衰微の時期を迎えた。ヌサンタラの
全土で大量に作られていたコーヒーは戦争遂行のためにたいして役に立たないのが明らか
であり、日本軍政はコーヒー畑で食用作物を生産するよう占領地の民に命じた。キンタマ
ニではコーヒー農園でトウモロコシが栽培されたそうだ。

海抜9百メートルを超えるキンタマニ高原地帯の生みの親であるバトゥル火山の噴火が1
917年、1948年、1977年に起こり、またバリ島最大の山グヌンアグンの196
3年大噴火などがあったために、キンタマニコーヒーの生産は大打撃を蒙っている。

それでもバリ島のコーヒー生産が花形の地位を失うことはなかった。1980年代の栽培
面積はロブスタ種3.8万、アラビカ種1.8万Haの合計5.6万Haで、1990年の輸
出量は6千1百トンにのぼり、バリ島産農園作物総輸出量の92%を占めた。しかし19
90年代のコーヒー価格暴落のために多くの農民がコーヒーから園芸作物に生産を切り換
える動きが起こり、コーヒー栽培面積は低下の一途をたどって野菜・果樹・花などに土地
を譲ることになった。

1994年の栽培面積は3.06万Haでロブスタとアラビカが互いに1.5万Haを占め、
生産量は1.04万トンだった。2005年のコーヒー輸出量は3.5トンに低下し、2
010年の栽培面積は3.1万Haになっている。[ 続く ]