「海を忘れた海洋民族(13)」(2024年02月29日)

スパイスを求めるインド・東南アジア・中国などの外国商船はだんだんとスラウェシから
マルクにかけての港にまで足を延ばすようになり、ゴワ・タロ・ボネ・ブトン・テルナー
テ・ティドーレなどの港が栄え始めた。16世紀に入ってからは、ポルトガルとスペイン、
そしておよそ百年遅れてオランダ・イギリスがそれらの港へやってくる外国商船のリスト
に加わった。

16世紀にバンテンはコショウを看板にして大商港にのし上がり、ヌサンタラ内外のマル
ク、ソロル、マカッサル、スンバワ、グルシッ、ジュワナ、スマトラ、中国、アラブ、ヨ
ーロッパ等から来たたくさんの商船を交易に誘い込んだ。

バンテン・アチェ・マラカなどの海洋通商国家は大きい商港を抱え、そこに入って来る船
と商船が取引する物品に課税して国を豊かにした。おまけに国王や宮廷の重臣たちまでも
が個人として商取引をした。農業国家では見られなかった現象だ。もちろんそれらの国家
は商船隊を持ち、諸地方から物産物資を集めて来て自国の商港に外国船の来航を誘った。
商港には大きな市が立ち、また船の航海に必要な水や食料の補給体制も整えられ、水夫た
ちのための休息や娯楽も用意された。諸外国の船はそういう港に入るのを好んだ。


宰相ガジャマダ以来、大海洋王国として威勢を誇ったマジャパヒッの没落は、王族の一人
であるラデンパタが封じられていたドゥマッをマジャパヒッの支配下から独立させ、ドゥ
マッは更にジャワ島北岸の商港をイスラム化して反ヒンドゥブッダ王国同盟戦線を築き、
巨大王国の息の根を止める結末に至った。通商の扉をひとつまたひとつと閉ざされていっ
たマジャパヒッの国力は枯れていくのにまかされたのである。

マジャパヒッが倒れるとドゥマッ王国が歴史の主役の座にすわった。ドゥマッの海軍力に
ついて論じている文献があまりないとはいえ、ポルトガルがマラカを占領した直後、ドゥ
マッはマラカに向けて100隻の軍船に一万人の兵士を載せて派兵している。

軍勢を率いた第二代スルタンのパティ ウヌスはその功にちなんでPangeran Sabrang Lor
の通称を得た。ジャワ語のsabrang lorはインドネシア語でseberang utaraを意味してい
る。スブランとは海や川の向こうの土地を指す言葉であり、つまり対岸ということになる。
独立前の時代、ジャワに住むひとびとはカリマンタン島やスマトラ島あるいはシンガポー
ルやマラヤ半島をタナサブランと呼んでいた。マラカに遠征したパティ ウヌスは北にあ
るタナサブランを攻めたのである。


1498年にヴァスコ・ダ・ガマがインドに到達してから、たくさんのポルトガル船が更
に東方への航海を試みた。ポルトガル人にとっては目隠しされているようなはじめての航
路だったかもしれないが、それは実は何百年も前からインド人・アラブ人・中国人の船が
通過していた動脈路だったのである。もちろんポルトガル人はアジア人の水先案内人を雇
って新航路発見を行なったわけだ。ヨーロッパ人の新世界発見の中身が何であったかとい
うことを示す縮図がそれかもしれない。ヨーロッパ船の来航初期には、ヌサンタラ海域を
航行するかれらの船にジャワ人やムラユ人の水先案内人が乗っているのが普通のことだっ
たのである。

16〜17世紀には南スラウェシのゴワやタロの王国がスパイスを積んだ船をあちこちの
港に向かわせた。そしてフィリピンやマカオから果てはオランダにまで商館と倉庫を持っ
たという話をハサヌディン大学歴史学者が述べている。

テルナーテスルタン国も昔から強力な海軍を持ち、マルク地方からパプア島に至る地域内
で優勢な立場を占めてきた。太平洋を頻繁に航海したイギリス人船乗りたちのテルナーテ
の海軍力の強さを高く評価する言葉がいくつか残されている。

17世紀にマカッサルは域内でもっともすぐれた大規模な商港に成長した。19世紀まで
外国人商人に在留許可を与えていたのはマカッサルだけであり、イギリス・デンマーク・
ポルトガル・スペインの商人たちは港の周辺に商館を建てて商業活動を盛んに行っていた。
商人たちは自分の商館に住み、商品を置いて倉庫にし、商取引をそこで行い、本国を代表
するエージェントとしての機能も果たした。[ 続く ]