「海を忘れた海洋民族(14)」(2024年03月01日)

16〜17世紀にスンバワ島のビマは商港として栄えた。香木の白檀や馬が主要商品とし
て取引され、蘇芳の木も赤色染料として人気を集めた。蘇芳は食用や衣料品用の染料とし
てヨーロッパ・中国・日本などに送られている。

今でこそビマ港は小規模な港でしかないありさまだが、19世紀まで東部インドネシアの
要港のひとつとして高い名声を誇っていた。1832〜1847年の間に186隻の大型
商船と726隻の帆船が入港している。1840年にビマ港から積み出された商品の中に
米100コヤン、綿100ピクル、ツバメの巣100カティ、ロウ19バクル、蘇芳2,
100ピクルがあった。ビマスルタン国も海上通商の保安と円滑を図るために強力な海軍
を育成した。

コヤンkoyangとはおよそ2トン、ピクルpikulは62.5キロ、カティkati500グラム。
バクルbakulはざるを意味しており、重量単位ではないと思われる。


17世紀になってヌサンタラの海にオランダ人がやってくると、ポルトガル人の時よりも
激しいコロニアリズムが展開されるようになった。それ以前には王宮と王宮の外の商人が
一体となって王国の富を増やしていたものが、王宮が白人に操作されるようになったこと
で当時のブルジョアジーである商人たちの動きが束縛される状態に陥った。商人層と一般
に呼ばれているが、かれらは資本家であり、船を持ち、商港のビジネスを統御し、商品を
海外に運んで通商を行なう経済活動の先導者だったのだ。

その多角的経済機能がVOCに奪われていった。VOCは王宮を操作する態勢を作り上げ
ると、王宮に地元ブルジョアジーの抑圧を行わせた。そのようにしてヌサンタラのひとび
とは海での諸活動の中心部から排除され、辺縁部の弱者になって動くことしかできない状
況に追い込まれていったのである。

活発な活動を呈していた各地の造船センターも、1684年のバンテンを最期にして火が
消えたようなありさまになった。その年、バンテンがVOCに屈服したのだ。

華人がリードしたと見られているラスム・ジュワナ・ジュパラ・ドゥマッ・スマランなど
に興ったジャワ島の造船産業はドゥマッが1521年に行ったマラカ進攻の大船隊を支え
る大黒柱の役割を果たしていたというのに、内陸部に封じ込められたマタラムスルタン国
が海外への道を狭められたために火が消えたような状態になってしまった。1677年の
バタヴィア城日誌にはこんな記述が見られる。
「ジャワ島東部のマタラムのひとびとは今や海のことに関する詳しい知識を持っておらず、
大型船も所有しておらず、それどころか海を重要なものとも考えていない。」

その状況は今日のインドネシアにまで持ち越されており、2010年ごろでさえ輸出入貨
物の95%が外国の貨物船で運ばれ、国内貨物輸送の半分以上が外国資本海運会社のイ_
ア船籍船で輸送されている。政府に登録されている7千隻の漁船の8割も、外国船主が持
ち込んできてイ_ア船籍に切り替えたものだ。そんな漁船の多くは違法漁業を行ない、漁
獲を洋上で外国漁船に移し替えるようなことを平然と行っていると噂されている。


ヌサンタラの各地にできた王国の没落はしばしば王位継承という内部コンフリクトが原因
になった。南海に進出して来た西洋勢力はその傾向を巧みに操って地域支配を拡大してい
った。海岸部の良港が相次いで西洋人の支配下に落ち、西洋人の操り人形にされた地元の
王国は海岸部と港を奪われて通商船隊と軍船隊をもぎとられ、内陸部を支配して農業国家
になる道への歩みを強いられた。[ 続く ]