「海を忘れた海洋民族(15)」(2024年03月04日)

経済センターとして繁栄をもたらしていたジャワ島北岸の商港はマタラムスルタン家の内
紛の中で徐々に王家の手から離れていった。マタラムスルタン国がVOCとはじめて結ん
だ1646年の協定の中に、次のような条項があった。
・マタラムが行なうすべての戦争にVOCは支援を与える
・マタラムの船およびマタラムの水夫はマルクへ赴かない
・マタラムの船およびマタラムの水夫が行く最遠の土地はマラカである
・メッカ巡礼者の交通はマタラムの要請に基づいてVOCが行なう

手に負えなくなったトゥルノジョヨの反乱を鎮圧するためにVOCの支援を求めたマタラ
ムのアマンクラッ1世は1677年にこんな協定をVOCと結んだ。
・マタラム領になっていたプリアガン地方をVOCに割譲する
・米と砂糖の専売取引権をVOCに与える

アマンクラッ3世の時代にパゲラン プグルとの間で王位をめぐる争いが起こり、VOC
に支援を求めたパゲラン プグルがウントゥン・スロパティと組んだアマンクラッ3世を
降して1704年に王位に就き、パクブウォノ1世を称した。新スルタンはその褒賞とし
てVOCに対し、
・バタヴィアとプリアガンの領有権確認
・チルボンとスマランならびにマドゥラ島東半分をVOCに割譲
・VOCはジャワ島内のどこにでも要塞を建設することができる
・ジャワ人の航海範囲はロンボッ・カリマンタン・ランプンまで
という協定を結んだ。

ジャワ人が太古の昔から培っていた海洋とのつながりはほんのわずかな隙間だけを残して
断絶した。大海を渡洋していた雄姿がジャワ海という池で遊ぶ幼児にされてしまったよう
なものだ。ジャワ人と海との結びつきをわれわれがあまり密接なものとして感じられない
のは、海とのつながりを絶たれた被征服者としての歴史が作り出したものだったのである。
ジャワ人自身もほとんどの人間が海を異物視し、海を恐れる、大陸型心情の人間に変わっ
てしまった。

1740年にバタヴィアで起こった華人街騒乱がジャワ島内に波及して華人ジャワ人連合
の反VOC戦争が1743年にジャワ島北海岸部で進展した。それを鎮圧したVOCはジ
ャワ島北海岸部での支配を力を背景にして強めて行った。喧嘩に強い者は弱い者と協定を
結ぶ必要などないということだろう。自分のしたい放題をしていればよいという弱肉強食
原理がきっとそれなのだ。


19世紀に入ると、イギリスのジャワ島進攻とイギリス統治時代を経たあげく、イギリス
がジャワ島をオランダに返還するというマタラムにとって予想外の事態に推移して、マタ
ラムはヨグヤカルタとスラカルタという内陸部の一画に完封されてしまった。

かれらの祖先であるマジャパヒッが建設したマルクからマラカ海峡までを包む一大海洋王
国の交通の要をなしたジャワ島海岸部の諸港のすべてが、その子孫の手から失われてしま
ったのである。[ 続く ]