「ヌサンタラのコーヒー(90)」(2024年03月05日)

ロンボッ島の東に浮かんでいるスンバワ島は東と西の島が地峡を介して繋がっているよう
な形をしている。標高2,824メートルの有名なタンボラ火山は東側の島にあって大きな半
島のように北西に向かって突き出し、西側の島に迫っている。

西側の島はバリ島のゲルゲル王国に征服されたことがあるが、バリ人の支配は短期間に終
わったようだ。東側はビマ王国が威勢を誇り、マカッサルの王国と提携して強力な支配を
保っていた。VOCが初めてスンバワ島にやってきたのは1605年のことだったが、支
配権を握るのは難しかったようだ。

イ_ア語ウィキペディアには、18世紀終わりごろにVOCがタンボラ山西側山麓にコー
ヒー農園を作ったと記されている。しかしそれは天災によって跡形もなく消え失せたこと
だろう。1815年4月10日に起こったタンボラ山大噴火は地球規模の大災害をもたら
し、160キロ立米の塵埃を吹き上げて1816年を夏のない地球にした。その噴火でス
ンバワ島民は7万1千人が死亡したとされ、その一帯を支配していたサンガルスルタン国、
タンボラスルタン国、プカッ王国を滅ぼした。別説では9万2千人が死んだとされている。
パプア人の文化との関りを持っていたタンボラ文化も火と灰の中で消滅した。


オランダ人がタンボラ火山周辺でそれ以前にコーヒー栽培をしたのかどうかは良く分らな
い。VOCは1701年4月17日にマカッサルで、タンボラ火山一帯にあった諸王国と
友好通商条約を結んでいるのだ。

1930年になってスエーデン人実業家ヨスタ・ビョルクルントGosta Bjorklundがタン
ボラ山の西と北の山麓およそ5.6万Haをコーヒー農園にし、タンボラロブスタコーヒー
の名を世界に示すきっかけをもたらした。噴火後からそのときまで、タンボラ山麓でコー
ヒー栽培は行われていなかったのだろうか?

スンバワ島のコーヒー産業の解説の中に、オランダ時代からのコーヒー農園が維持されて
いるのとまた別に、地元農民が興したコーヒー栽培園もたくさんあり、それらは海抜1,2
00メートルの高地にまで散在している、と記されている。そしてコーヒー木の種別も標高
によって選択的に行われているそうだ。なんとなく、サビ病災禍後のコーヒー復活時にオ
ランダ人が行った基本ロジックがそこに適用されているように思えないこともない。


1943年にヨスタ・ビョルクルントの農園はNV. Pasmaの手に渡った。そして1977
年になってジャカルタのPT Bayu Aji Bima Senaが経営権を握った。バユアジ株式会社は
2001年までコーヒー生産を行なっていたものの、その年に農園の生産活動が停止して
しまったのである。土地は荒れるに任され、150人の現地従業員も路頭に迷った。

ビマ県庁がその農園を受け継ぐことにした。そのとき、生産性のある畑はわずか80Haし
かなく、年産1.2トンのコーヒーが穫れるだけの状態になっていた。

ビマ県庁の農園建て直しの結果10年後には、生産性のある畑が146Haに広がり、年産
3万トンの収穫を得るまでになった。この県営コーヒー事業のおかげで県収入は2〜3.
5億ルピアの追加が可能になっている。だがヨスタ・ビョルクルントの時代にこの農園が
生み出していた収入はそんな程度のものではなかったはずだ。県庁ははるかに巨大な金額
をターゲットに置いた。

西ヌサトゥンガラ州庁もスンバワ島のコーヒー製品プロモーションについて、タンボラ産
とトゥパル産を中心に置いていると語っている。[ 続く ]