「海を忘れた海洋民族(17)」(2024年03月06日)

種々の歴史資料、中でも中国の史書を調べれば、13世紀の東南アジアにおける通商セン
ターはスリウィジャヤ王国の覇権下にあったマラカ海峡がトップに浮かび上がって来る。
マラカ海峡にある諸港では、規模の大小にかかわらずさまざまな商品の取引が行われた。
材木・スパイス・真珠・香水・象牙・羊毛・綿布・・・、そして生活基幹物資である農産
物。それらを買いに来た外国の商人たちは黄金・銀・陶磁器・絹布などを持ち込んできて
交易した。

16世紀初頭にヨーロッパ人の先頭を切って、1509年にポルトガル人が東南アジアの
貿易センターになっているマラカにやってきた。ポルトガル人は政治力軍事力を使って通
商航路と通商場所である商港を自分の支配下に置き、通商行為を独占しようとする動きを
インドで示したから、それを既に体験したインドやアラブの商人たちはマラカのスルタン
に、やってきたポルトガル人がインドで何をしたか、ここで何をするだろうかについて真
剣に忠告した。

おっかなびっくりになったスルタンが初来航したロペス・ドゥ セケイラの率いる4隻の
ポルトガル船隊に夜襲をかけることを命じたとき、情報がポルトガル人に洩れたために船
隊は港を砲撃してからインドに向けて逃走した。陸上に残っていた一部のポルトガル人だ
けがマラカ当局に捕らえられた。

ゴア駐在の、ポルトガル王国のアジアにおける副王アフォンス・ドゥ・アルブケルケは準
備を整えると1511年に15隻の大船隊でマラカが行った無法行為に対する決着をつけ
るためにマラカに入港した。アルブケルケは囚人の釈放とポルトガル側が蒙った損害の賠
償を要求し、マラカ側はそれに応じた。するとアルブケルケはそれに続けて通商協定の締
結を申し入れた。だが一方的な条件を出すポルトガル人との交渉に嫌気がさしたマラカ側
はポルトガル人との交渉会談を打ち切った。

ポルトガル人は船に戻った。そして港に向けて艦砲射撃を開始したのである。翌日には戦
闘部隊が上陸して要所を制圧したあと、アルブケルケはまた上陸してスルタンに要求した。
マラカはポルトガル王に服従し、ポルトガルの属国になることを認めよ。それ以外の妥協
は一切ありえない。マラカのスルタンは最後の最後まで「ヤー」を言わなかった。アルブ
ケルケは全戦闘部隊に命じた。マラカを総攻撃して奪取せよ!


アジアの諸民族にとって通商を軍事力で独占するというコンセプトはこれまで体験したこ
とのないものだった。通商路を各地で支えていた種々のアジア人にとって、暴力で自分の
欲望を満たそうとする人間は恥ずべき劣悪な非文明的存在だったのだ。暴力を使うのは包
括的な覇権の争奪のためであり、そこでの通商というものの位置付けはワンオブゼムでし
かない。

ポルトガル人はアジアの物産の西方に向かう流れをアラブ経由から喜望峰ルートに移し替
えようと目論んだものの、そのアイデアは実現しなかった。ポルトガル船はもちろんそれ
を行なったが、暴力的な支配をかけてきた者の言いなりになるインド人もアラブ人もジャ
ワ人もいなかったということだろう。

ともあれ、ポルトガル人の努力は他のヨーロッパ人にアジア貿易への道を開き、またかれ
らのアジアにおける試行錯誤が後発ヨーロッパ勢に先例を学ばせる結果をもたらした。次
の世紀に先駆者がVOCによって追い落とされる結末へと進んでいったのは皮肉と言うほ
かあるまい。

ポルトガル人の試行錯誤を教訓にしたオランダ人やイギリス人は、先行者よりも高いレベ
ルでアジア貿易の推進に臨み、数百年という期間をかけてはるかに完璧で完成度の高い手
法を練り上げ、アジア支配を達成して君臨したのである。[ 続く ]