「海を忘れた海洋民族(18)」(2024年03月07日)

ポルトガル人がアジアにやってきたとき、東洋と西洋の二種類の資本主義が激しくぶつか
り合うことになった。西洋の資本主義は個人を富ませることを観念の基盤に置いているが、
東洋の資本主義はモラル型資本主義、つまり集団を富ませることが優先されていたとファ
ン・ルールは説いている。

ファン・ルールによれば、元々インドネシアにあった通商スタイルはたいへん自由なもの
で、取引者が相互に合意すればどんな取引でも成立したし、権力機構からの独占・制限・
干渉などを一切受けない形態で行われていた。投資やクレジット供与なども商人が自由に
決裁できた。取引が概して小規模だったのは、商人たちが物品のクオリティや売買者同士
の間に生じる社会的人間関係を重視したためだった。

アジア人の通商スタイルの中で貨幣をコモディティと見なす概念は一般的にならず、商品
の価値を計る方法は他の商品との重さの比較によってなされた。たとえば1603年に2
トンの米はナツメグ400〜500バハルと等価だった。1バハルとはおよそ272キロ
の重量だ。米・綿製衣服・陶磁器や他の割れ物などの取引において、ナツメグが貨幣の機
能を果たしていたと言うことができるだろう。


そんなころ、ヌサンタラ域内で行われている通商活動が生産者・流通者・小売者・消費者
の間で互いに依存し合う関係を作り出していた。互いに相手に依存し、同時に相手をサポ
ートしていたのである。そのポイントにおいて、通商に従事する商人たちがヌサンタラの
各地に住むさまざまなひとびとを結び合わせることに最大の貢献をしたと言うことができ
るように思われる。通商活動には商品の輸送、商品の検数検量、受け渡し、債権債務管理
などのプロセスが必ずついて回るのだから。

マルク地方では、14世紀ごろからアラブ商人が強い影響力を振るっていたにもかかわら
ず、インド型コスモロジー文化の中にどっぷりと浸っているジャワ商人との関係を地元民
はしっかりとつなぎとめていた。

一例を挙げるなら、乾燥気候で石だらけのバンダ島で、大勢のジャワ人奴隷がクローブ農
園の労働力になっていた。15世紀にはジャワ島からの米の輸入がバンダ島の死命を制す
るほどの重要事項になり、1620年には年間およそ3万トンの米がバンダ島に届かなけ
ればならない状況になっていた。バンダ島のその需要を実現させるのが375隻ものジャ
ワ商船だったのである。

一方、マルクに産するスパイス類の交易に従事するジャワ人は1千5百人くらいいたとい
う報告もある。スパイス交易の場合、コショウ・シナモン・ナツメグ・クローブ・樟脳な
どを大型商港に運び、外国船がその港にもたらした綿製衣服・陶磁器・火薬・鉄・香水・
黄金などとバーターして故郷に持ち帰った。それを行なったのは決して大商人だけではな
い。中規模小規模の商人が、あるいは船乗りが一攫千金を夢見て船を走らせたのである。

船乗りになって船を駆り、港に着いたら商売を行なうという多角性はかれらにとって成功
への階段を踏みしめることだったのだ。成功すれば自分の船を持ち、後進の船乗りを育成
しながら自分の地位を高めていくことがそのような方法でできた時代が昔にあった。


西洋人がコロニアリズム原理を踏まえてアジア侵略を行なってから、それまで栄えていた
アジア型の諸コンセプトは抑圧され、破壊され、捨てられ、かえりみられなくなった。少
なくとも西洋型資本主義の到来前のヌサンタラには、労働力・土地・貨幣の商品化という
コンセプトがまだ生育していなかった。そりゃそうだろう。集団を富ませる原理を持つ社
会で、金が金を生む仕組みはあってならないものだったはずだから。

西洋文明だけが現代世界の文明であると考えるようになった今のわれわれは、アジアへの
西洋型資本主義の浸透を文明化の一幕だと評価しているのではないだろうか。オランダ東
インド政庁によってヌサンタラに移植された西洋型資本主義は三百年以上もの間繁茂し続
け、アジア型資本主義を闇の中に葬り去った。それがプリブミによる海上通商活動の滅亡
と背中合わせになっていたことは、その両者が切り離しようのない密接な関係にあったこ
とを示しているように感じられる。[ 続く ]