「ヌサンタラのコーヒー(93)」(2024年03月08日)

フローレス島産のコーヒーで有名どころとしてはKopi ManggaraiとKopi Bajawaの名が挙
がっている。フローレス島でコーヒー栽培が始まったのは1920年代末のことであり、
どうやらオランダ東インド政庁はそれまでフローレス島に手を付けなかったようだ。

サビ病の蔓延でスマトラとジャワのコーヒー栽培が大打撃を蒙ったあと、既存の栽培地で
はアラビカからロブスタへの切り替えで対応が図られた。それと同時に、東インド政庁は
まだコーヒー栽培を始めていない地方を探したのかもしれない。ただしマンガライでも主
力はロブスタになっていた。現在マンガライでのコーヒー生産はアラビカとロブスタの両
方が作られており、量的には一対二でロブスタの方が多い。


フローレス島西端に位置するマンガライ地方の歴史を見ると、南スラウェシのゴワ王国が
1605年にタロ王国と合併してマカッサルスルタン国になり、イスラム布教を活発に行
って周辺諸王国をイスラム化させ、宗教的指導と被指導の上下関係を結んで支配権を振る
ったあたりから話が始まっている。マンガライ地方は古くからスンバワ島東側のビマ王国
の支配下にあって、ビマ王国がイスラム化してマカッサル王国に服属したあと、マンガラ
イはビマとマカッサルへの貢納を余儀なくされていた。

その状態は1667年まで続いたものの、VOCがマカッサル港の所有権をゴワから奪う
動きの頂点として1666年から1669年まで行われたマカッサル戦争でゴワ・ボネ・
ビマの連合軍が敗退し、マカッサル港がVOCの手中に落ちた。

VOCはゴワと結んだ終戦協定でボネとビマに対する宗主権を放棄させたが、ビマとの間
でも通商協定を結んでビマが持っていたマンガライの宗主権は安堵した。1730年代に
ビマ王国はマンガライの要所にイスラム行政を行なう統治機構を設けて領土支配を強化し
た。その状態が19世紀末まで継続したようだ。

ただしオランダ人が何もしなかったかと言うとそうでもなく、プロテスタント教団による
布教が東インド政庁の保護下に進められたから、マンガライ地方の宗教地図はポルトガル
人の残したカトリック教の信徒が東部地方では最大で、西北海岸部にはイスラム教徒が多
く、またプロテスタント教徒も布教の進められた地方にいるという複合的な形態になって
いる。


オランダ東インド政庁がマンガライに手を入れ始めたのは1900年に入ってからだそう
だ。コーヒー栽培に関してはマンガライ地方の現在の東マンガライ県ポチョラナカ郡チョ
ロル村が中心地になった。マンガライ地方は現在西マンガライ県・マンガライ県・東マン
ガライ県の三県に分立しており、マンガライコーヒー生産はその三県および地続きのガダ
県の一部までをカバーして行われている。

三県の内陸部は海抜1,100〜1,300メートルの高地をなしていてコーヒー栽培にうってつけ
の環境を備えており、生産量は東マンガライ県が全体の5割を支えている。東マンガライ
県の栽培総面積を郡別に並べるとポチョラナカ郡がトップに出て来る。

チョロルのコーヒーを初めて飲んだコーヒー輸出業者のひとりは、「この地方のコーヒー
は舌に独特の衝撃をもたらしてくれる。まるでティモールレステのエルメラかランプンの
リワみたいに。」と語ったそうだ。


マンガライ地方に魅力を感じた西洋人コーヒー農園投資家がいなかったのだろうか。この
地方に大規模農園は作られず、たくさんの地元農民がコーヒー生産農家になってコーヒー
豆の流通構造が現地にできあがった。そのようなケースでは、華人やアラブ人あるいはブ
ラックチャイニーズと呼ばれたブギスやマドゥラなどのイスラム系商人が集荷人や仲買人
になって農民から廉価に産品を買い取ることが行われ、特に結実前のシーズンに農民が金
銭難に陥るとその時期の廉い相場で青田買いをし、9〜10月の大収穫期に結実した後で
一文も払わないで実を全部持ち去るという手法が使われ、生産農民は不遇の立場に陥るの
が普通だった。

だったら西洋人の大規模農園が作られるほうが地元民にはよかったのだろうか?それは何
とも言えないだろう。信じられないほどの低賃金ですら働かざるを得ないような境遇に陥
るだけなのだから。少なくとも、生産農民になるということは自分の資産を持つことを意
味しており、一介の肉体労働者よりもマシな境遇にいることは間違いないように思われる。
[ 続く ]