「ヌサンタラのコーヒー(94)」(2024年03月13日)

マンガライの民謡の中に、こんな歌詞の唄がある。
E angle le Colol le Colol, E ange manga kopi manga ndoi...
インドネシア語に訳すとこうなるのだそうだ。
Hanya di Colol banyak kopi, dan kalau ada kopi pasti banyak uang.
1930〜40年代生まれのマンガライ人はみんなこの唄に深くなじんでいると言われて
おり。コーヒーの産地としてその名を世に示したチョロル村への驚きと憧れがその歌詞か
ら感じられる。

チョロルの名が世の中に知れ渡ったのは、1937年に東インド政庁がマンガライ地方で
開催した農園コンテストでチョロル村民が優勝したためだ。そのときのコンテストにはマ
ンガライ地方のすべての郡が参加して行われた。そして最優秀賞の栄誉がチョロル村民の
ベルナドゥス・オジョンに与えられたのである。その栄誉を記念してベルナドゥスにはサ
イズおよそ1.6x2メートルの旗が授与された。旗そのものは赤白青の三色旗で、白の
部分に手書きで次のように書かれている。

PERTANDINGAN KEBOEN!
        1937
     MANGGARAI

ベルナドゥスはこの旗を自分の家系にとっての家宝にし、竹製の特別な入れ物に入れて保
管した。この旗を外来者に見せるときには特別な儀式が行われなければならない。

ベルナドゥスが1987年に没したとき、この家宝は子供の一人アロイシウス・レシンが
受け継いで自宅に保管した。コンパス紙が取材に訪れたとき、旗を見せてもらうのにおよ
そ30分ほど待たされた。ただ品物を取りに行って持ち出してくるわけにはいかないのだ
そうだ。家宝を受け継いだ者が父ベルナドゥスの霊に、その旗を遠方から来た客人に見せ
ることを知らせた上で取り出さなければならないのである。


1937年のコンテストの実施や表彰旗の存在といった史的事実からわれわれは、オラン
ダ東インド政庁がマンガライの民衆にコーヒー栽培を行わせたあと、民衆への正しい栽培
の指導のために優秀な実例を決定してやること、そして同時に栽培への意欲を盛り上げて
やることを目的にして、植えたコーヒー木が最初の結実期を迎える樹齢7年前後の時期に
お祭りを開催したことを推測できるのである。それはマンガライにおけるコーヒー栽培の
歴史が始まった時期をわれわれに教えてくれるものでもある。

この見解をチョロル村ばかりかポチョラナカ郡の社会有力者から東マンガライ県庁の行政
関係者に至るまでが支持している。マンガライコーヒーの歴史がまだ百年未満であるのは
間違いないところのようだ。


ベルナドゥス・オジョンが最優秀賞を得たのは、行政が派遣したコーヒー栽培指導員の指
導通りにコーヒー木が正しく植えられていたことが大きい評価ポイントになったと地元長
老のひとりが解説してくれた。コーヒー木は整然と一定の間隔を置いて植えられており、
斜面の畑地はテラス形態にされていた。平らな畑地に植えられれば、雨水が土壌の養分を
流し去ることが斜面よりはるかに小さくなるため、木は栄養豊かに育ち、着ける実も豊か
なものになる。

ベルナドゥスが得た最優秀賞はかれの一家一族にとっての栄誉にとどまらず、われわれチ
ョロル住民の栄誉と誇りになった。村のみんなは自信を持って、コーヒー畑をどんどん広
げて行った。そのコンテストが行われたとき、まだ15歳になっていなかったかれはその
ように物語っている。[ 続く ]