「ヌサンタラのコーヒー(95)」(2024年03月14日)

チョロルを訪れると、道路の端にコーヒー木が並んで植えられている場所があるくらいだ。
ほかの地方へ行けばそこには側溝が作られるはずではないか。チョロルのひとびとにとっ
てのコーヒーのウエイトの大きさがいかなるものであるのかを、その一事が示しているよ
うにも思われる。マンガライ三県のコーヒー生産量のおよそ5割がチョロル産で占められ
ているという声も聞かれるほどだ。

オランダ時代にチョロル村と呼ばれていた土地は東マンガライ県の県庁所在地ボロンから
およそ60キロ、西隣のマンガライ県県庁所在地ルテンから45キロの距離にある。

ちなみに、現在の東マンガライ県ポチョラナカ郡の中にチョロルという名の村は存在せず、
ベルナドゥス・オジョンが栄誉を獲得したときのチョロル村はレンデナオ、ウルワエ、ン
キオンドラの三つの村になっている。その三か村およそ4千5百人の住民はすべからくコ
ーヒーを生計の基盤に置いている。昨今では、行政区画名称の中に出て来ないチョロル村
の名を地元のひとびとはKampung Tua Cololという呼び方で区別している。

1945年初めごろまで、Glarang TjololはKedaluan Lambaledaの領域内に含まれる一地
区だった。グラランは村に該当し、クダルアンは村々を統括する郡の機能を果たすもので、
ビマ王国が定めた行政区画構造に由来している。

オルバレジームになってからグラランチョロルはウルワエとンキオンドラの二村に分割さ
れ、そこからさらにレンデナオをはじめとする5村が分裂したために7つの村に分立した、
という解説がコンパス紙の記事の中に述べられている。


ところがオランダ人がヌサンタラの地から去ったあと、マンガライのひとびとはコーヒー
栽培の熱意を失ってしまった。十年以上にわたってひとびとはコーヒー畑をかえりみよう
とせず、コーヒー木は年々年老いていくのにまかされた。1990年ごろまで、コーヒー
木の若返りはなされなかった。

マンガライのコーヒー生産が昔の活力を取り戻し、マンガライコーヒーの名前がかつての
ように国際社会で口にされるようになったのは21世紀に入ってからのことだそうだ。今
やマンガライのコーヒー農家はコーヒー木の世話をオーガニック方式で行い、成熟した実
の摘み取り、選別、豆の取り出し、熟成、洗浄、乾燥、包装、保管などの一連の処理を国
際標準に即して行っている。

しかしこのあと登場するバジャワコーヒーのほうが、マンガライコーヒーよりも先に国際
的知名度を高めることに成功した。ひょっとしたら、マンガライでコーヒー生産に低迷期
が発生したことが、その知名度逆転という結果を招いた原因だったのかもしれない。
[ 続く ]