「マルクの悲惨(1)」(2024年03月18日)

総面積85.8万平方キロのMaluku地方には2,924の島々が海の間に散在していて、
陸地の総面積は8.62万平方キロしかない。残りはあまねく海・海・海だ。東のパプア
島と西のスラウェシ島にはさまれた海域に大きい島が集まり、バンダ海を越えた南側には
小スンダ列島の延長を成す島々がパプア島の鳥の首を目指して連なっている。この地方は
昔から一千の島々の国Negeri Seribu Pulauと呼ばれてきた。

今から3万2千5百年前にインド太平洋西部に住む古代人が東方への移動を開始し、マル
ク地方を通ってパプアへ、さらにオーストラリアへ移住した。パプア〜オーストラリアの
原住民と言われているひとびとの祖先がかれらだ。

今から4千5百年前にオーストロネシア語を話すひとびとがフィリピンを通って東南アジ
アやオセアニアの島々へ移動した。この移動の際にもマルク地方が通過地になった。オー
ストロネシア語は台湾・東南アジア・マダガスカル・オセアニア西部地方で使われている
言語だ。

マルク地方に最初に定住したのは、オーストロメラノソイドにモンゴロイドが混じったひ
とびとだったらしい。かれらは波状的にマルク地方にやってきて、個々の島に離れて住ん
だ。そのあと、紀元前2千年ごろにオーストロネシア語を話すネグロイドがやってきた。

それが一段落するとこの地方へのムラユ人の移住が起こった。ムラユ系のひとびとは期間
を置いて何度か波状的にやってきたため、先にやって来て海岸部に住んでいたムラユ系が、
後からやって来たムラユ系に内陸部へ追いやられることが起こった。現在、島々の奥地に
住んで外界との接触を好まない諸集団の中にいるムラユ系の部族はそんな経緯が生んだ現
象だとされている。


ネグロイドの到来によって、社会が経済活動を開始した。歴史学者は島嶼間の通商がその
時代に始まったと考えている。クローブとナツメグがマルク地方の外へ流れ出るようにな
ったのは多分、もっと後だろう。それをマルク地方から外へ運び出したのが中国・アラブ
・インド・ムラユ・ジャワ人の船だった。漢王朝の文書やプトレミーの著作などから、ク
ローブとナツメグの通商は古い時代に始まっていたことがわかる。そんな歴史の初期の時
代にスパイスの産地として通商の舞台になっていたのがテルナーテ・ティドーレ・バチャ
ン・モティなど北マルク地方の島々だった。

ヨーロッパ人がやってくるまで、アラブ人が「諸王の島Jazirat al-Muluk」と呼んだこの
スパイス諸島にはアジアの諸地方から商船がやってきて交易した。アルムルッとは北マル
ク地方に興ったテルナーテ・ティドーレ・ジャイロロ・バチャンの4有力王国を指してい
る。そしてそのアラブ語がマルクという地名の語源になった。

北マルクのひとびとは自分たちが誇るその4王国を指してMoloku Kie Rahaと称した。イ
ンドネシア語に直訳するとEmpat Gunung di Malukuとなる。山は天上界につながる場所で
あり、山岳信仰は地球上のあちこちにあるものの、マルク人にとっての山は何だったのだ
ろうか?大海の中に山岳信仰が生まれてもわたしに異論はないのだが、かれらの自然環境
を見るかぎり、山よりも海になじむほうが自然な印象を感じる。なにしろ実際にモロクキ
エラハの王は海に住む龍の卵から産まれたという伝説があるくらいだから。だが「海より
も山」派が語る伝説によれば、アラブ青年と天上界の姫君の間に産まれたのがキエラハの
王たちだった。


スパイスを用意したモロクキエラハの港にジャワ人は米を、華人は陶磁器を、グジャラー
ト人は綿製品を、ムラユ人は雑貨品を、ブギス人やアラブ人は金銀を持って来た。たくさ
んの買い手が競り合えば、売り手は収入が増加する。世界中が欲しがる、希少価値を持つ
スパイスのおかげでマルク人は豊かな経済発展を謳歌することができたのである。テルナ
ーテの王宮は自由な通商を保護し、スパイス生産者である農民を優遇した。王宮は市場で
の交易から得る税収で満足していたのだろう。スパイス生産農民にまで苛斂誅求を課す傾
向はあまりなかったそうだ。

ポルトガル人やスペイン人がやってきて通商の独占を企てたとき、地場の諸王はそれに強
く反対して自由な通商を維持することに全力を注いだ。だがイベリア半島よりもっと北方
に住む老獪狡知なヨーロッパ人がやってきたとき、マルク人の抵抗は力を失ってしまうこ
とになった。[ 続く ]