「マルクの悲惨(2)」(2024年03月19日)

神はマルク地方にだけスパイスという恵みを与えた。スパイスの故郷であるマルク地方は
そのスパイスという賜物のおかげで悲惨な歴史を経験しなければならなかった、という声
がある。ところがその声が説明している悲惨な歴史とは、ヨーロッパ人がマルク地方にや
ってきたところから始まっているのだ。ヨーロッパ人がやってくるまでの時代に紡がれた
歴史の中に、スパイスにからむ悲惨なできごとはなかったのだろうか?

いや、たとえ何らかのできごとがあったところで、ヨーロッパ人が行った世界の発見と支
配という流れの突端が植民地主義や帝国主義に進化していく中でかれらが発展させた、異
文化異人種に対する重厚で緻密な敵対と搾取に比べれば、そのウエイトの違いは明らかな
ようにも思われるのである。

現代世界文明を築き上げたヨーロッパ人であればこそ、そのような人類発展史がこの地上
に刻まれて行ったにちがいあるまい。ヨーロッパ人がスパイス独占のために全身全霊を注
ぎ込んで切磋琢磨していなかったなら、現代の世界文明はまた異なる様相になっていたこ
とが想像される。そしてその人類発展史の中に垣間見られる善悪尊卑優劣美醜などの諸価
値のすべての相貌が、ヨーロッパ人が歴史の中で示したさまざまな姿が、いま地上の全人
類(もちろん例外を含めての話だ)が奉じるようになった現代世界文明の中に散りばめら
れているようにわたしは感じる。


マルクにおけるヨーロッパ人到来の歴史はテルナーテで始まった。1511年8月にマラ
カを陥落させて自国領にしたポルトガル人は、その年12月にアントニオ・ドゥ・アブリ
ウが率いる三隻の船隊をマルクに向けて発進させた。

この船隊は1512年半ばごろにバンダ島に達したものの、それ以上前進するのは無理だ
とアブリウは判断し、一行はマラカに引き返すことにした。ところが帰路に暴風雨が船隊
を襲い、フランシスコ・セハウンFrancisco Serraoの船がアンボン湾まで漂流したあげく、
そこで沈没したのだ。はじめてやってきたヨーロッパ船の乗組員をアンボン島のヒトゥ王
国の民衆が救助した。

セハウン一行はヒトゥの賓客として厚遇された。ヒトゥのスルタンはセハウンの来航の目
的がテルナーテを訪れることであるのを知り、救出したポルトガル人たちをテルナーテに
送ってくれた。

テルナーテのスルタンもポルトガル人の軍事力を期待してセハウン一行を賓客にした。テ
ルナーテが行っていたティドーレやジャイロロとの間で地域覇権を争う戦争でポルトガル
人の助力が大いに効果をあげ、テルナーテの優位が域内に確立されたことから、セハウン
はスルタンの絶大な信頼を獲得し、公私にわたる助言者となって王宮内で最大の実力者に
のし上がった。


テルナーテの最強の敵はティドーレ王国だった。1521年4月にフィリピンでマゼラン
を失ったマゼラン船隊がその年11月に北マルク海域に到達したとき、このスペイン船隊
はテルナーテのポルトガル人とコンタクトするわけにいかなかった。セハウンの友人だっ
たマゼランはもういないのだ。スペイン人が陸地に上がるのはトルデシリャス条約に対す
る違反行為に該当するため、ポルトガル人に何をされても文句は言えない。

困窮していたマゼラン船隊にティドーレのスルタンが手を差し伸べた。ポルトガルの軍事
支援を得たテルナーテとの力の均衡を図るためにティドーレ王国はスペインと組むことを
考えたにちがいない。こうして北マルクの地場の覇権争いにヨーロッパ勢がからみ込む状
況が起こり、武力闘争がますます多様性を帯びることになった。

スペイン人はティドーレにメキシコのアカプルコから軍勢を送った。だが太平洋を横断す
る効率の悪さはスペイン側を劣勢にした。マラカからいくらでも軍船や兵員を送り込める
ポルトガルの立場とは比較にならない。

スペイン人はフィリピン南部に中継基地を設けようとし、その動きが始まると今度はフィ
リピンの完全征服へと関心が移って行った。スペイン人がフィリピンを征服したのは15
65年であり、そのころにはティドーレのスルタンの失望が現実のものになっていた。ス
ペイン人はフィリピン経営にかまけて北マルクへの熱意をおろそかにした。[ 続く ]