「マルクの悲惨(3)」(2024年03月20日)

セハウンの後任者ジョルジュ・ドゥ ブリトは1522年、テルナーテ王宮の近くにソン
ジュオンバチスタSao Joao Batista要塞を建設した。その要塞に居座ったポルトガル人は
テルナーテ王宮に介入するとともにポルトガル王国代表部としての機能を果たしていたが、
両者の間が常に蜜月関係にあったわけではない。1530年にはポルトガルのカピトゥン
がテルナーテ人の行政高官を反逆の罪で捕らえて処刑する事件が起こり、王宮側はその行
為に抗議してスルタンが王位を放棄し、同時に食糧を要塞に供給することを領民に対して
禁止した。

ポルトガル人がスルタンを捕らえて幽閉したところ、テルナーテの王宮はティドーレ・バ
チャン・パプアの諸王国と連合してソンジュオンバチスタ要塞を包囲し、人間と物資の出
入りを完全に封鎖した。ポルトガル側は仕方なくスルタンを解放し、この事件は曖昧な形
で幕を閉じた。

1533年にはポルトガルのカピトゥンとテルナーテの貴族の一人が陰謀をたくらんでス
ルタンを亡き者にしようとした。それを知ったスルタンは母と共にティドーレに逃げ、テ
ィドーレからさらにポルトガル人の手が届かないジャイロロに移った。母と共に逃げたの
は、母がティドーレのスルタンの姉妹のひとりだったからだ。その後も、テルナーテの王
宮とポルトガル人の間での不協和音は何度も繰り返して発生している。

ソンジュオンバチスタ要塞はポルトガル人が名付けた名称であり、地元民はガマラマ要塞
と呼び、オランダ人もそれに倣ってガマラマの名称を使った。今は廃墟になって残骸をさ
らしているこの遺跡を現代の地元民はカステラと呼んでいる。


1535〜1570年の間テルナーテの王位に就いたスルタン ハイルンは近隣の諸王国
を平定してイスラム化を行ない、イスラム勢力の盟主として地域の覇権を握った。

一方、暗黒のアジアにカトリックの光を輝かせることをアジア遠征の大目的のひとつにし
ているポルトガル人は、言うまでもなくマルク地方のキリスト教化に努めていた。156
0年代にはポルトガル人の布教によって背教者が出始めたことをアンボンのイスラム指導
層がスルタン ハイルンに訴えた。スルタンはキリスト教化した村に警告を与えるため、
1563年に皇太子バアブラに命じて軍船隊をその村に遣わした。この事件のおかげでポ
ルトガル人はまだイスラム化していないマルク辺縁部から北スラウェシにかけての一帯に
向けて支配権樹立の動きを活発化させるようになった。

スルタン ハイルンのマルク地方における覇権がますます強まると、ポルトガル人の不安
も一層高まった。ハルマヘラにある、ポルトガルに従属した一地方にテルナーテの軍勢が
攻め込んだこともある。域内海上交通を支配しているテルナーテのスルタンの一声で、ソ
ンジュオンバチスタ要塞に住んでいる全ポルトガル人の必要とする食糧などの諸物資がテ
ルナーテに陸揚げされなくなることは容易に起こるだろう。テルナーテ都督のカピトゥン 
ロペス・ドゥ メスキタは決意した。スルタンハイルンを排除しなければならない。かれ
は奸計をめぐらした。

1570年2月25日、カピトゥン ロペスはスルタン ハイルンを晩餐に招いた。今のよ
うな緊張に満ちた関係を終わらせて、両国が手を携えて発展するための道を探るためにふ
たりだけで語り合いたい、というのがその理由だ。付き人を連れて来るなというのがそこ
にあったカピトゥンの意図だった。スルタンはそれを受けた。かれは自ら単身で要塞にや
ってきたのである。

カピトゥンは自分の甥であるマルティム・アフォンソ・ピメンテルに、スルタンが帰ると
き要塞の大門の裏に隠れていて、外に出ようとするスルタンを短剣で刺殺せよと命じてあ
った。そしてその通りのことが行われ、明主スルタン ハイルンは世を去った。[ 続く ]