「ヌサンタラのコーヒー(98)」(2024年03月19日)

その子供たちのひとりフェルナンドゥ・デ ヴィリゲンと結婚したヨーロッパ生まれの欧
亜混血娘エリザベス・ファークは、1930年代の不況期にジャワ島での暮らしから脱け
出すことを考えた夫に付き添って文明のさい果ての地ナムレアに移住した。夫が少年の日
々を過ごした大きな家に住んで、夫妻はカユプティ油精製事業に取り組んだ。

西洋文明から切り離されたブル島での暮らしは、エリザベスにとって冒険に満ちた日々だ
った。かの女はそれを愉しみ、その暮らしを愛した。西洋医学の不在な文化の中でかの女
は子供をふたり産み、育てた。最初の子供はアンボンの病院で産んだが、二人目は完璧な
ブル島出産だった。

カユプティ油精製作業に雇用されるマルクやスラウェシあるいはパプアなどの諸種族のほ
とんどが、常に借金の中で生き、働きたい時に働き、自分の好む作業方法を行なう自由を
最優先している。華人がそんなプリブミのモットーを巧みに操ってかれらを借金漬けにし、
そこから儲けを引き出している。それを否定する西洋文明の子である夫妻は正しい生き方
をプリブミたちに教えようとして新しい雇用スタイルを熱心に普及したものの、プリブミ
自身の大半がそれを望まない。

しかしそんな暮らしの中に、エリザベス本人は大きい生きがいと生きることのうれしさ・
美しさを見出していた。結局カユプティ油のヨーロッパにおける需要が衰えて夫妻の事業
は失敗し、四人になったこの一家はジャワ島へ戻って行くことになる。


エリザベスはナムレアでの6年間の生活体験をHet laatste huis van de wereldと題する
作品にして1939年に世に発表した。著者名はBeb Vuykとなっている。Vuykの現代オラ
ンダ語発音がファークと聞こえるために、わたしは上でそうカタカナ書きした。ベブは1
932年に処女作Vele namenを発表して作家としての歩みを既に踏み出している文筆家だ
った。

ナムレアの家はかの女に真の人生を生きる機会を与えたThe Last House In The Worldだ
ったにちがいあるまい。その地上で最後の家を捨てて、この一家4人はジャワ島に戻り、
そして独立インドネシア共和国に住む機会すら失われて、生きるためにヨーロッパに移住
せざるを得なかった。


古い歴史の中で、ブル島にやってきて海岸部に住み着き、先住民を内陸部に押しやったひ
とびとはムラユ人だった。ポルトガル人がマルクの海にやってくるようになった時期の1
0年間にテルナーテスルタン国がブル島を支配下に置いた。1520年ごろにはブル島で、
テルナーテの勢力によるイスラム布教が行なわれ、租税貢納が取り立てられた。

ポルトガル人がテルナーテの宮廷に受け入れられてから、ポルトガル人が王宮の決定に影
響を及ぼす事態が起こるようになった。ポルトガル人が自国の利益のためにテルナーテを
乗っ取ろうとしたのはあの時代、当たり前すぎるほど当たり前なことだったにちがいない。
そしてテルナーテ王宮がそれに抵抗したことも。

王宮はポルトガルの戦力に対抗するためにオランダ人を宮廷に招いた。そしてとどのつま
りは、オランダ人に乗っ取られたのである。結局はオランダ人がテルナーテスルタン国を
操り人形にした。1652年、オランダVOCはテルナーテとの間でクローブの木を減ら
す協定を結んだ。


クローブの木がすべてVOCの監督下に置かれて生産しているようにすることがオランダ
の独占を確実なものにするのであり、今のようにあまりにも大量なクローブ木の存在は監
督監視の網の目からはずれた産品を生み出して市場におけるオランダの独占構造の完成を
危ういものにするばかりだ。監督の目が十分に行き届かない場所にクローブ木があっては
ならない。

クローブ木の持ち主であるスルタンが考えたことであれば内容は単純明快だが、ヌサンタ
ラのひとびとは商品の独占という考えを昔から持たなかったらしい。商品は大量であれば
あるほどよく、そしてそれを欲する者のだれが来ようが市場で形成された相場を承認して
金を払うかぎり、商品オーナーはすべての客が品物を購入できるように骨を折った。
[ 続く ]