「マルクの悲惨(19)」(2024年04月16日)

ブル島の海岸線はほとんどがサンゴ礁と浅海に包まれていて、大型船が入れるのはただ一
ヵ所カイェリ湾だけになっている。それが原因で、大きなこの島の中でただそこにだけ人
口集中が起こった。VOCはブル島の支配と監視の拠点をカイェリに置いた。最初はただ
の軍営地だったようで、そこにはMandarsjahと呼ばれる木造の砦が1657年ごろに設け
られていた。

1661年にシモン・コスがマンダルシャを石造りの要塞に作り替えた。最初はCosburg
と呼ばれていたが、そのうちにFort Oostenburgに改名された。1689年にアンボン都
督が視察に訪れた時に火薬の大爆発事故が発生し、要塞が破壊された。当座の修復として
また木造の砦が作られ、Defensie要塞と呼ばれるようになった。

デフェンシ要塞が石造りの強固なものに変わったのは1785年のことだ。しかしその十
数年後にオランダのVOC本社は破産し、1799年末に会社は姿を消した。


マニパ島はブル島とセラム島やアンボンを結ぶ航路の通過点に位置している島だ。この島
にもクローブの木が生えており、島民はスパイス生産を生計の中心に置いて暮らしていた。
1641年、VOCはこの島の海岸部に石造りのWantrouw要塞を設けて守備隊を置き、同
時にそこをクローブ倉庫として使った。軍曹ひとりに指揮された20人の兵隊がこの要塞
に常駐した。

1656年にアンボン都督府が命令を出した。マニパ島でクローブの木を新たに育てたり
植えたりしてはならない。また生産を調整し、過剰な生産が起こらないようにせよ。死活
問題に直面した住民は反乱を起こした。オランダ人を皆殺しにしてしまえ。

ワントロウ要塞への反乱者の攻勢が一段落してから、守備隊が反撃を開始した。原住民を
殺戮し、森林と住居を焼け野原にしたのである。海岸部には死体が散らばり、殺されなか
った者は内陸部や他の島に逃げた。奥地に逃げた者の多くは餓死した。海岸部はゴースト
タウンになり、マニパ島守備隊は仕事がなくなってしまったそうだ。なにしろクローブを
VOCに売り渡しに来る原住民がひとりもいなくなったのだし、クローブの木さえ全滅し
たのだから。


セラム島の西端は半島になっていて、半島の南端はアンボン島北岸のすぐそばにある。ア
ンボン島を支配下に収めたVOCがそのホアモアル半島に手を伸ばしたのは当然の順序だ
ったにちがいない。

半島の中ほどにあるルフ村の海岸にVOCは1628年、木造の要塞を建ててその地方一
帯で産するクローブの倉庫にした。ところが火事で焼け落ちたために、もっと内陸寄りの
場所に石造りの要塞を1631年に建てたものの、水の便が悪かったせいでまた最初の木
造要塞の場所に移転してBullebak要塞と称した。そして1634年にブレバッ要塞は解体
されたが、1644年にまた再建されてOverburg要塞と名付けられた。1651年に始ま
って56年まで続いたホアモアル戦争でこの要塞は破壊された。

ルフからずっと北に上がった、ラティラ湾の一番奥にピル村がある。VOCはそこに小さ
い防衛拠点を設けてWambuis要塞と名付けた。ファン デン ボシュの率いる守備隊が16
88年ごろに駐屯していたという記録がある。ここもクローブの倉庫を兼ねていたようだ。
1695年に改装されたが1697年になって解体され、倉庫は地元のオランカヤに下げ
渡された。

セラム島南岸のラティラ湾からずっと東に位置するエルパプティ湾の東の岬の先端にアマ
ハイ郡マソヒ村がある。VOCはそこに1630年、Harderwijk要塞を設けた。

セラム島北岸にもVOCの要塞が建設されている。北岸中央にあるサワイ村に設けられた
Sawai要塞はRumah Obatの別名でも知られている。サワイ村から東に12キロほど離れた
ワハイ村にもVOCは要塞を建てている。サワイ要塞の建設は1823年、Wahai要塞に
ついては詳細不明。[ 続く ]