「マルクの悲惨(20)」(2024年04月17日) ハルク島はアンボン島の東に位置している。Pulau Inaと呼ばれていたセラム島で14世 紀に二集団の間で抗争が起こり、避難するひとびとが移住してきたのが歴史の始まりとさ れている。だがそのとき、この島には既に先住者がいた。イナとは「母」の意味であり、 ハルクに移り住んだひとびとが祖先を忘れないためにそう名付けた可能性を感じる。 ポルトガル人は1527年にハルクに初上陸し、この島に産するスパイスの交易を確保す るために要塞を建設した。オランダ人がポルトガル人からこの島を奪ってから、要塞は改 修されてZeelandia要塞と名を変えた。その後、海蝕作用のために崩壊したので1655 年に再建され、Nieuw Zeelandia要塞と改名された。 ところがこの要塞の履歴に関する説明には諸説あり、ポルトガル人が要塞を建設してゼー ランディアと名付け、オランダがそれを奪ってニューゼーランディアに改名したというも のや、オランダが1626年にゼーランディアという新要塞を建設し、1656年に建て 直してニューゼーランディアに改名したという話もあって、いささか錯綜している。カピ タン パティムラの戦功をくじいたのがこの要塞だ。その戦闘からしばらく経って、そこ は1862年からクローブ倉庫に用途転換されて軍事施設でなくなった。 VOCは1627年オマ村にHectoria要塞を作り、1656年にはペラウ村にHoorn要塞 を建てた。ロホモニ村にも要塞の遺跡があり、ポルトガル人が建てかけていたが完成する 前にオランダに敗れてポルトガル人は去って行ったという話になっている。 サパルア島のDuurstede要塞はVOCが1690年に建設を開始し、1691年に完成し た。それまでHollandia要塞を本拠地にしていたVOC軍は1692年にドゥルステーデ 要塞に引っ越した。 ところがイ_ア語ネット内で得られる情報のほとんどは、最初ポルトガル人が1676年 に建設し、VOCが1691年にそれを奪ったという説明になっている。そうであるなら、 総面積3,970平米という巨大な要塞を建てるだけの軍事力をポルトガル人はサパルア 島でその時期まで維持していたということにならないだろうか? Hollandia要塞はVOCが1624年に木造のものをシリソリサラニ村に建設し、165 2年に石造りのものに改造してサパルア島防衛の本拠地にしていた。 VOCのサパルア島防衛戦略では、ドゥルステーデとホランディアの主力二要塞の補助と して小規模のDelft要塞とOuw要塞を建てることにしていたようだ。そのデルフト要塞につ いても、イ_ア語情報ではポルトガル人が1656年に建設したと語られている。165 5年に20人編成の守備隊がそこに住んでいたという記事が得られたものの、この守備隊 がポルトガル人だったのかオランダ人だったのかはその記事の中に明言されていない。 ヌサラウッ島はレアセの東端に位置している。この島にVOCはひとつだけ要塞を建てた。 シラ村に比較的小型のBeverwijk要塞が1654年に建設されている。4門の大砲が備え られ、軍曹が指揮する20人の部隊と軍医がひとり駐屯した。 最初の守備隊指揮官はファン ホニモアという名の軍務社員だったが、1673年に副主 席商務員がその後を継ぎ、通商活動に重点が移されたようだ。守備隊指揮官が会計帳簿に 首っ引きになっていた姿が想像される。[ 続く ]