「マルクの悲惨(21)」(2024年04月18日)

1817年にカピタン パティムラが蜂起を決意したとき、ヌサラウッのカピタンのひと
り、アブブ村のパウルス・ティアハフにも蜂起への参加を要請する手紙が届いた。パウル
スと他の村々のカピタンたちはサパルアに赴いて、一斉蜂起についての会議を行なった。
そのとき、パウルスはパティムラの右腕のひとり、カピタン アントネ・レボッと共に他
のカピタンと共同で現地住民を率いてベフェルウェイク要塞を攻撃する任務を与えられた。
アントネ・レボッはAnthone Rhebokと綴られているものとAnthony Reebokと綴られている
記事があって混乱しそうだ。

ヌサラウッ反乱軍のベフェルウェイク要塞攻撃は成功し、要塞は陥落して守備隊は3人を
残して全滅した。ヨーロッパ人伍長ひとりとジャワ人兵士2名が捕虜になった。ヌサラウ
ッからオランダの軍事力が消滅したので、反乱軍はサパルアの反乱を応援するために海を
渡った。

サパルア島反乱軍のハルク攻撃が失敗し、反乱軍は防戦態勢に入ってサパルア島の守備を
固めた。ヌサラウッから来た反乱軍はサパルア島オウ村でVOC軍と激しく交戦した。反
乱軍の士気は高く、VOC軍指揮官を戦死させたものの、ジャワ島から送り込まれてきた
援軍を得て優位に立っているVOC軍に対抗しきれず、激闘の末に敗れて反乱軍の指導者
たちは捕虜になった。ヌサラウッ反乱軍の指揮官であるパウルス・ティアハフに最大級の
刑罰が与えられるだろうことは目に見えていた。


パウルスにはマルタ・クリスティナという名の17歳の娘がいた。マルタ・クリスティナ
・ティアハフは父親の指揮する反乱軍の一員になり、地元民の女性や若者たちに反オラン
ダ闘争に参加するよう呼びかけ、また自ら銃を執ってVOCとの戦闘に加わった。

戦場できびきびと行動する長い髪を垂らした若い女戦士の姿は、ほどなく反乱軍の誰もが
知るところとなり、VOC軍兵士の間にもその名が知れ渡るようになった。戦場で弾薬を
使い果たしたマルタが敵兵に向かって石を投げたという話が残されている。

父親の直属部隊の一員となって常に父のそばに付いていたマルタも、サパルア島のオウの
戦闘で敗れたときに父と一緒に捕らえられた。捕虜になった反乱軍の指導者たちはアンボ
ンに運ばれ、ヴィクトリア要塞の牢獄で裁判の日を待った。首魁のトマス・マトゥレシを
はじめ、反乱の中心になったカピタンたちは裁判で死刑を宣告された。

トマス・マトゥレシとかれの腹心の部下になったアントネ・レボッ、サイッ・プリンタ、
フィリップ・ラトゥマヒナの三人のカピタンは、1817年12月16日にヴィクトリア
要塞の表に作られた絞首台で順番に処刑された。一方パウルス・ティアハフはヌサラウッ
島に戻され、その4人たちより一足先の1817年11月17日、ベフェルウェイク要塞
の前庭で銃殺処刑された。


マルタは父親がオウで捕虜になったとき一緒に捕まったのだが、マルタには処罰が与えら
れなかった。年齢的に刑罰を与えるには不適切とされたようだ。だが故郷で行われた愛す
る父親の処刑をかの女はその目で見なければならなかった。VOCへの憎しみと怒りに燃
えたマルタは父親の復讐戦を開始した。ヌサラウッの森林奥深くに隠れてVOCへのゲリ
ラ戦を行ったものの、結局捕らえられてジャワ島に流刑されることになった。

別の記事には、マルタがゲリラ戦を行った話が出て来ず、VOC側がマルタを放免したこ
とを後悔し、マルタを捕らえてジャワのコーヒー農園で強制労働させることにしたという
内容が記されている。

ジャワ島に向かうVOCの軍船エフェルステンの船上でかの女はオランダ人への抵抗を続
けた。オランダ人が与える食事などいらない。来る日も来る日も絶食が続けられ、体調が
悪化して行った。乗船している軍医がマルタの介護をしようとしたが、マルタはそれすら
拒んだ。そしてついに1818年1月2日、マルタは18歳の生涯を閉じたのである。マ
ルタの遺体はバンダ海で水葬に付された。[ 続く ]