「マルクの悲惨(22)」(2024年04月19日)

バンダネイラ島はバンダ群島の中で郡役所が置かれているバンダネイラの町がある島だ。
昔からこの島の南部にあるバンダネイラの港町が群島の中心をなしていた。ナツメグの故
郷であるバンダ群島はヨーロッパ人の到来する前から世界的に名が知られ、ナツメグやメ
ースの交易をしに中国・アラブ・インド・ムラユなどの船が続々とバンダネイラにやって
きた。

ポルトガル人は1529年、バンダネイラ島に総面積4,684平米の大型要塞を設けた。
VOCは大軍を送り込んでポルトガル人を追い払い、1609年にその要塞を奪ってバン
ダ群島における活動センターにした。NassauというのがVOCの要塞名だ。

VOCは更に1611年、ピーテル・ボーツ総督の指示に従ってBelgica要塞を建設した。
こうしてバンダネイラにふたつの巨大要塞がVOCの旗をなびかせ、バンダの支配権をデ
モンストレートして見せたのである。しかしバンダ人がそれに畏れ入らなかったことはそ
の後の歴史が示している。


バンダブサル島がバンダ群島における最大の島だ。この島は別名ロントルあるいはロント
イル島とも呼ばれている。ナツメグの最大の産地であるこの島にVOCはたくさんの要塞
を建てた。

1621年にLacoy要塞が島の南部にあるLakui湾に建てられた。地元民はLakui要塞と書
いている。クーンが指揮したバンダブサル攻略戦のとき、VOC軍はそのラクイ湾に上陸
したのだ。

1624年にはバンダネイラ島とロントイル島間の海上交通の監視と統制を主機能にする
Lonthoir要塞が建設され、後にHollandiaに改名された。その年にStorm要塞が別の場所に
建てられている。

1628年にデンデル村にDe Morgenster要塞が設けられた。これは島内の治安維持を主
機能にする要塞で、農園の奴隷労働者の不法行為や逃亡奴隷の犯罪行為を取り締まりの主
対象にしていた。オランダ東インド政庁はナツメグ独占政策を1864年に終了させたの
でこの要塞もお役御免になり、放棄された。

1630年にConcordia要塞がワエル村に作られた。この要塞は周辺地域に住む者が禁制
の荷抜けを行なうのを防止するのが主機能だったようだ。VOC以外の相手にナツメグを
売れば、死刑だけが与えられる罰だった。最初に建設されたときは三角形だったが百年後
の1732年に稜堡を四隅に持つ四角形に改造された。

1638年にはサロモン村にCulemburg要塞が建てられた。現地人はKuilenburgとそれを
呼んだ。


グヌンアピ島はバンダネイラ島と狭い海峡をはさんで西側に隣接している島だ。島の中央
に高さ656メートルの火山がある。と言うよりも、火山が海上に出て来て島になったと
言うほうが当たっているかも知れない。バンダネイラの遠景を描いた絵画や写真に必ず登
場している火山がこの島なのだ。過去4百年の間に大型の噴火が少なくとも24回起こり、
地元民の生活に大きい被害をもたらしている。

ポルトガル人が最初にこの島についての記録を1586年に書いてヨーロッパに紹介した。
土壌が肥沃なこの島で育ったナツメグは品質が他の島々より優れていたため、ヨーロッパ
人はこの島を重要視した。

VOCは1664年に、ロントル海峡に臨む島の南部の高台にKijk-in-den-Potと名付け
た要塞を設けた。最初は海峡を通過する船に向けられた砲台だった。それから何度か改造
と拡張が行われてから1683年に地震で破壊され、その後も地震のたびに応急修理が繰
り返されてなんとか維持されていた。1762年になってそこは半月型の砲台に改造され
た。この要塞が建てられた場所がコタ村だったために、Kota要塞とも呼ばれている。

18世紀末になってVOCはこの島の防衛能力を高めるために小型の要塞を三つ増やした。
Batavia、Sibergsburg、De Koopがそれだ。後にCalombo要塞と呼ばれたデコープは島の北
岸の岬に設けられた砲台で、海からの敵の侵略に対する防衛力の向上を狙ったものだった。
[ 続く ]