「世界を揺さぶったスパイス(2)」(2024年04月18日)

今から4千年以上前に古代エジプト王朝でミイラ作りが行われた際、インドネシアが原産
地であるクローブや樟脳が遺体保存に使われていた。そしてミイラの鼻の部分がコショウ
で覆われていた。

ほぼ同じころに中東からヨーロッパにかけての一帯にも東インドのスパイスが流入してい
たようだ。初期には上流層だけが使っていたのだろうが、紀元前1700年代のシリアの
遺跡からクローブが見つかっており、中東の中流層の家庭で一般に使われるものになって
いたと推測されている。

紀元前5世紀のギリシャ人ヘロドトスは、不思議な物産であるスパイスがいったいどこで
穫れるのかについて西方社会でその謎解きが盛んになったという社会描写を書き残した。
西方社会にスパイスを運び込んで来たアラブ商人たちはスパイスの産地に関する情報をひ
た隠しに隠したそうだ。別の情報ソースには、シナモンの由緒を尋ねられたアラブ商人が
それは鳥の巣に使われていたものだと答えた話が語られている。「これは鳥の巣から得ら
れたものであり、鳥がいったいどこからこれを巣に運んで来たのかは鳥に答えてもらわな
ければわからない。」

西暦紀元1〜2世紀のギリシャ人プトレマイオスは樟脳の産地であるスマトラ島のバルス
という地名を著作の中に書き記した。アルクルアンにもkapur barus(樟脳)の効能が記
されている。古代の商港バルスには118種類の病気に対して効能を有する3百種類の薬
用植物が集められていて、カプルバルスはその中のひとつだった。しかしアジアの薬用植
物文化は西洋式化学医薬品との競争に敗れてしまったのだ。今バルスの町を探し回っても、
それだけの薬用植物を見つけるのは不可能になっている。

西暦5世紀のユスティニアヌス帝の時代、アレクサンドリア港で課税された物品は54ア
イテムあったが、そのほとんどがスパイスだった。7世紀後半の人である唐僧の義浄も自
分の著作の中で、スパイスが南海における重要な交易商品だったことに触れている。

8世紀の建造物チャンディボロブドゥルの壁画には当時使われていた大型船のレリーフが
あり、そして63種類のスパイスのレリーフも飾られている。それはスパイス交易でイン
ドネシア人がもっぱら受身の立場に立っていたのでなく、インドネシア人もスパイスを船
に積んで大海に乗り出していたことを暗示するものだ。

ポルトガル人がマラカを奪取する1511年まで、マルク地方のスパイス類はスラウェシ
・カリマンタン・ジャワの諸港に四散してから、当時の域内最大の商港であるマラカに集
まってきた。インドのスパイス集散地マラバルとマラカを結ぶ動脈通商路を大型商船が往
復し、スパイス類はそこからペルシャ・紅海・ジェッダ・ムスカットなどに届けられ、更
に砂漠を横断してアレクサンドリアやレヴァントと呼ばれる地中海東岸地方の諸港に達し
た。トルコやレヴァントと密接な商取引関係を築いていたヴェネツィアがナツメグやクロ
ーブのヨーロッパ市場への入り口の地位を維持していたものの、1511年にそのスパイ
スルートは大音響と共に崩壊したのである。[ 続く ]