「世界を揺さぶったスパイス(3)」(2024年04月19日)

紀元前という今から何千年も前の時代から西暦紀元の初期まで、エジプトやギリシャなど
のアジアの西の果てにつながっている世界にアラブ商人が運び込んだマルク地方のスパイ
ス類を、アラブ人はいったいどのようにして手に入れていたのだろうか。それを推測して
いる説がいくつかある。

いまシルクロードと呼ばれている陸路を経たというのがそのひとつ。中国船が南海に赴き、
東南アジア海洋部でローカル商人がマルク地方から運び出したスパイス類をどこかの大型
港で入手して持ち帰った。中央アジアの商人たちが中国との交易でそれを手に入れ、それ
が陸路を通ってアラブ世界に到達したというストーリーだ。

中国船が訪れたのはスリウィジャヤ王国領内の大型港だった可能性が高い。スリウィジャ
ヤはヌサンタラの広範な地域と通商関係を結び、通商線を保護するために軍隊を各地に駐
屯させていた。マルクやティモールからスパイス類がスリウィジャヤ領内に運ばれ、中国
船やインド船との交易の重要な商品になっていたと考えられる。

別の説では、中国を介さず、インド経由でアラブに入ったというものだ。マルクからロー
カル商人がヌサンタラのどこかにスパイス類を運び、インドからの商船がそこへ交易に訪
れ、インドとアラブ間の海上交通がそれをアラブ世界に届けたという説。

スンダ海峡を経由する、中国とインドを結ぶ海上交通路が存在していたことを5世紀中国
の仏僧法顕がインドに赴いたときの旅行記に書いており、上のふたつの説が並行的に成り
立っていたとしてもおかしくはない。

もうひとつの説は、マラヤ半島を通過して陸路と海路の両方からアラブ世界に向かった可
能性を説いているものだ。マラヤ半島のどこかの港に集まって来たスパイスが北上して陸
路経由インドに入り、更に陸路を経てアラブ世界に届いたケースと、そのどこかの港から
インドに向けて海上を運ばれ、アラブの商船がインドからアラブの港に運び込んだふたつ
の可能性がある。これも上の二説と同時に成り立っていておかしくないように感じられる。

長い時間の中で大勢の人間が関わって行われたことがらに、単一の正解など当てはまるも
のではあるまい。人間は他人を真似ることもし、他人がしないこともするのである。


現代地理学では、古代のアジアとヨーロッパを結ぶ陸上の通商路がシルクロードと名付け
られ、海上交通路にもMaritime Silk Roadという名称が付けられた。だが海上に陸のシル
クロードのような交通路は存在しなかったという反論がある。

紀元前500年ごろまでローマ〜ギリシャとインド間の陸上交通は活況を呈し、ローマ人
コロニーとインド間の交易は大いに栄えてインドに流入して来る極東アジアの産品も西洋
世界に届けられた。これを極東と西洋を結ぶ一本の通商路と見なすのは自然な解釈だろう
と思われる。

ところが海上のありさまを眺めて見るなら、インドにはアラブ人も船でやってきた。イン
ドの海岸部で原住民は大きな袋に詰め込まれたコショウを家から担ぎ出し、市場へ持ち込
んで売った。やってきた商船にコショウが運び込まれ、その代価として渡された黄金を運
ぶ艀の列は絶えることがなかった、と謳われたそうだ。そのコショウが紅海やアラブ半島
諸港で陸揚げされ、アレクサンドリアやレヴァント地方に運ばれてから西洋世界に届けら
れた。もちろんその商船は極東アジアから送られてきた絹布や焼き物などをどこかの港で
入手してコショウと一緒に陸揚げしたことは間違いあるまい。だがそんな内容を陸上通商
路と同一形態になっていたと見なして本当に正しいのだろうか?[ 続く ]