「マルクの悲惨(終)」(2024年04月22日)

アイ島はバンダ群島から少し西に離れている。この島をVOCは1615年に征服し、1
616年におよそ2千5百平米のRevengie要塞を設けた。海岸に作られたこの要塞の稜堡
のひとつが1683年に地震のため崩壊した。1748年ごろから、VOCは犯罪を犯し
たり会社の方針に従わない社員の流刑先としてこの要塞を使うようになった。その年、ジ
ャワのある地方に置かれた方面軍の司令官がレフェンジ要塞に流刑されている。


ルン島はアイ島からさらに西に離れている。イギリスはルン島を1616年に征服して北
岸のナイゼラカに要塞を構築した。ポルトガルを駆逐してバンダで優位に立ったオランダ
にダメージを与えるため、イギリスは反オランダ蜂起を計画した各地の原住民に武器兵器
や訓練の支援を与えた。1601年(別説では1602年)にバンダにやってきたイギリ
ス人は1609年にバンダの原住民が行った対オランダ武力攻勢に原住民側に付いて協力
し、その後も機会があるたびに原住民の反オランダ闘争を裏で操ったという説が語られて
いる。ルン島の領有はそれらの活動に便宜を与えたことだろう。

1667年のブレダ条約でイギリスとオランダはルン島と米国に設けたコロニーであるニ
ューアムステルダムを交換した。バンダ群島におけるVOCにとっての禍根がそのとき消
滅したことになる。

VOCはルン島にLoji要塞を設けたというイ_ア語情報があるのだが、他に何ひとつ情報
が見つからないため、それが軍事基地を指しているのか、統治行政本部のことなのか、よ
くわからない。Lojiというイ_ア語はオランダ語logeに由来していて、西洋人が設けた交
易ポストがたいていロジと呼ばれていた。西洋人はロジに住み、商品の倉庫として使い、
頑丈な壁で作られたこの建物を警護するために守備隊が置かれ、時には大砲が置かれるこ
ともあったから、インドネシア語のベンテンに当てはまるのは間違いあるまい。

ルン島の統治と防衛の拠点としてオランダ人がロジを建てて住んだことは大いに推測され
るのだが、軍事施設として建てられたものでなかった場合、要塞という日本語のイメージ
に合致しない可能性が高いかもしれない。


キサル島はティモールレステとインドネシアの国境に位置している小島だ。スパイスの産
地ではないが海上交通の通過点として軍事的に重要な役割を担っていた。

VOCは1665年、島の西岸中央部のコタラマ地区にDelfshaven要塞を建て、現地統治
支配の本拠地として使った。守備隊本部・武器弾薬倉庫・食糧倉庫などの機能がそこに持
たされた。さらに1777年、ナマ港にVollenhaven要塞を建設して防衛と倉庫の機能を
持たせた。


アル群島はパプア島の鳥の頭の喉笛をにらんでいる島々だ。一番大きい島はひとつのまと
まった島のように見えるものの、実はまるで川のような狭い海峡で分離された複数の島々
から成っている。そのひとつウォカム島の北西に突き出た半島のすぐ近くにあるワルマル
島に昔から栄えていた商港、ドボの町がある。

VOCは1659年にドボから8キロほど離れたウォカムの半島中央部の海岸に要塞を建
ててコロニーを作った。要塞は現在の海岸線から20メートルほど陸地に上がった位置に
ある。この要塞は要所が石造りになっていて、塔を備えた防舎になっていた。

ナツメグ独占政策のためにこの島でナツメグの育生と取引が行われないようにするのがそ
の要塞に駐屯した守備隊の使命だったようだ。そこを17世紀末に訪れたフランソワ・フ
ァレンテインは、要塞ではひとりの軍曹とひとりの伍長が統率する10人の兵員が暮らし、
その近くに原住民の部落があったと書いている。それが現在Kota Lamaと呼ばれているエ
リアであり、要塞も今はコタラマ要塞と呼ばれている。

1792年に原住民が蜂起したため、この要塞は放棄されたようだ。19世紀にそこを訪
れたオランダ人たちは要塞が残骸をさらしているのを目にしているが、1840年の記録
には要塞の隣に建てられた教会や井戸がまだ使用されていると書かれている。[ 完 ]