「世界を揺さぶったスパイス(4)」(2024年04月22日)

陸上シルクロードを連続した単線がメインをなしたイメージで描いてもそう大きな的外れ
にはならない気がするのだが、一方の海上シルクロードに単線のイメージは当てはまらな
いと主張する声がある。

海上交通路は中国とアラブ半島を単線で結ぶものでなく、中国とインドネシア、アラブ半
島とインド〜インドネシアをつなぐふたつのルートがインドネシアで中継されたのがその
本質であり、中国からもアラブからもインドネシアのスパイスを求める船がそれぞれの間
を往復していただけという印象が濃い。そう考えるインドネシアの知識人たちは、海上ル
ートを陸路と同じ名称で呼ぶのはおかしいと反論している。海上交通路はspice roadと呼
ばれる方がより正確ではないだろうか、という提案がそれだ。


そのようにたいそう古い時代からインドネシアに産するスパイスを求めて西部アジアから
商人たちがやってきていたことは間違いないようだ。インドネシアに大型海洋王国を築い
たスリウィジャヤやマジャパヒッ王国がヨーロッパ人の到来以前に強力な覇権をインドネ
シアに築けたのは、かれらが手に入れることのできた諸資産の運営の成果だったと見られ
ている。その諸資産の中にスパイスが含まれていた。自国領民の需要をしのぐほどの外国
からの需要を適切に操ることで、インドネシアの王権は西方にある諸王国との結びつきを
確立させることができたはずだ。

中国からやってくるスパイス買付商船はたいていがマラカやマニラに入って交易した。そ
れらの商港が生まれる前はマジャパヒッあるいはスリウィジャヤの大型港を訪れたと見ら
れている。インドネシアのマルク地方にあるテルナーテ、ティドーレ、マキアン、バチャ
ン、モティの島々から船積みされたスパイス類は南シナ海からインド洋北岸にあるさまざ
まな港で中継されながら、遠い昔からエジプトやヨーロッパに流れ込んだのだ。

インドネシアが種々のスパイスの産地であったがゆえにヨーロッパ人の領土支配の対象に
され、長期にわたって異民族の支配下に落とされたとその歴史を語る声があるものの、ス
パイスなど何ひとつ産出しないたくさんの国もが似たように目にあったのだから、その視
点にはあまり客観性が感じれられないように思われる。歴史の初期における強い誘因には
なっただろうが、ヨーロッパ人の世界支配に向けられた貪欲さの原因をそこに結び付ける
だけでは、かれらの貪欲さがどのように成長していったかというプログレッシブ面での推
移が見落とされることになりそうだ。


世界にあるスパイス百種類のうちの40種類がインドネシアに生えている。その豊かなイ
ンドネシアに産するスパイスを代表するものとして、cengkeh(クローブ)、pala(ナツ
メグ)、kayu manis(シナモン)、vanili(ヴァニラ)、lada(コショウ)などがよく挙
げられる。現代インドネシアのスパイス貿易における商品規模のトップ5を占めているの
がそれらのスパイスなのだ。

その他にも、歴史的に見るならスマトラ島北部インド洋岸にあるバルス港で遠い昔から取
引されていたカプルバルス(樟脳)、北スマトラ州が大生産地であるkemenyan(安息香)、
ティモールやスンバなどで穫れるcendana(白檀)などもインドネシアを代表するスパイ
スと目されてきた。

食べ物に使われないと思われている樟脳・安息香・白檀などもスパイス(英語のspice、日
本語の香辛料、インドネシア語のrempah)に属しているので、スパイスという言葉を単に
食用という視点からだけ見ていてはいけないようだ。[ 続く ]