「世界を揺さぶったスパイス(5)」(2024年04月23日)

【コショウ】
人類のスパイス文化の中で早い時期にメジャー商品になったのがコショウだった。世界の
スパイス需要の中で最大の取引量を占めたためにコショウはスパイスの王様と呼ばれた。

インド亜大陸西岸部が原産地とされているこのスパイスは、15世紀ごろまで原産地のイ
ンドが世界需要への最大供給者としての名をほしいままにしてきた。その結果アジアのス
パイスを自分の手に握りたい西洋諸国が続々とやってきて武力で町を奪い取り、この亜大
陸の蚕食を始めた。ポルトガル、オランダ、フランス、イギリス・・・

そしてひとしきり醜い奪い合いが演じられた後、イギリスがインド亜大陸を獲得した。と
ころがイギリスの支配が確立されてから、インドはコショウの王様の地位から滑り落ちた
のである。

その王様の座を受け継ぐかのようにのし上がって来たのがインドネシアだった。インドネ
シアのあちこちでコショウの大農園が作られ、ご本家のインドをしのぐ世界最大の供給者
の地位を獲得した。もちろんその当時はまだインドネシアという国になっていなかったか
ら、ヌサンタラの全域をまとめればそうなったという話だ。


言うまでもなく、コショウを欲しい西洋諸国は自分にとって都合の良い土地でコショウ栽
培をその地の原住民に行わせようとした。スマトラ島西海岸部がヌサンタラで最初のイン
ド人移住者のやってきた土地ではないかと推測されるのだが、その古代の移住者が植えた
コショウがアチェやミナンカバウあるいはブンクルを生産地にしたのとは別に、ヨーロッ
パ人はマラカ海峡沿いにもコショウの産地を作ろうとした。

かつてはコショウの大集散地としての地位を謳歌していた商港マラカでも、そこが西洋人
の支配下に落ちた後でコショウ栽培を試みた国があったが、うまく行かなかったようだ。
スマトラ島西岸のブンクルで産するコショウをEICイギリス東インド会社は貪欲に集荷
した。原産地のインドを押さえたイギリスがスマトラからのコショウの入荷を喜んだとい
う話はどうもキツネにつままれているような印象がしてならない。


紀元前1世紀から6世紀ごろまでの間にインド文明が東に向かって広がったとき、コショ
ウ栽培も人間の移動と共に拡大した。その時期に東南アジア一帯における食文化が辣味を
強調する形で確立されたのではないかとわたしは推測しているのだが、間違っているだろ
うか?

もちろんショウガという、東南アジア海洋部に自生している辣味スパイスも昔からあり、
ショウガの辣いものはトウガラシと遜色ない辣味をわれわれの口にもたらしてくれる。だ
から東南アジアの古代人は辣味ショウガとコショウで舌を燃やしながら、生きていること
の実感を堪能する欲求を満たしていたことが想像される。

ポルトガル人が南米からトウガラシを持って来て東南アジアに広めたとき、それまで東南
アジアの厨房で主役の座にすわっていたショウガとコショウが脇役に落とされたのではな
いかというのがわたしの立てている仮説だ。なにしろ、トウガラシは木に成っている実を
ちぎって水洗いするだけでそのまま使える簡便性を備えている。ショウガもコショウもそ
の簡便さには舌を巻いたにちがいあるまい。


インドからインドネシアへのコショウの伝来は、ジャワ島西端のバンテン州パンデグラン
県海岸部にあるTeluk Ladaが最初の門戸だったと言われている。1777年にヨーロッパ
で作られた地図にこの湾がPepper Bayという地名で登場しているそうだ。このコショウ湾
に面してLabuanの町があり、その町が昔はコショウ湾の港だったことが地名から推測され
ている。ラブアンやラブハンLabuhanという地名は全国各地にあり、船の錨を下ろすこと
を意味するlabuhがそれらの語源であるのは定説になっている。[ 続く ]